徒然草の大福長者

兼好法師の書いた徒然草に、
ある大福長者から聞いた話が載っている。
大福長者というのは今でいえば大富豪のこと。
徒然草は鎌倉時代の終わり頃にまとめられたようだから、
この大福長者は鎌倉時代後期を生きた大富豪である。
この大福長者は金儲けの方法について次のように語ったという。

「人は何よりも一途に利益を得なさい。
 貧しくては生きる甲斐がない。
 富める者のみが人といえる。
 利益を得ようと思うなら、
 まず心の使い方を修業しなさい。
 その心というのは他でもない。

  1. 人の世が永続するものと思って、
    仮にも無常と思ってはならない。
    これが第一の用心である。
  2. 何でも用を叶えてはならない。
    人は皆、願望が無限である。
    欲に従って望みを遂げようと思えば、
    百万の銭があっても少しも続かない。
    願望は止むことがない。
    財は尽きる限度がある。
    限りある財をもって、限りない願を叶えることはできない。
    願望が心に生じかけたら、
    自分を滅ぼす悪念が来たものと堅く慎み恐れて、
    少しの用も為してはならない。
  3. 銭を召使いのように用いる物と考えれば、
    ずっと貧苦を免れることはない。
    主君のように神のように畏れ尊め。
    銭を従えて用いようとしてはならない。
  4. 恥辱を受けたとしても、怒ったり怨んだりしてはならない。
  5. 正直にして約束を堅く守りなさい。

 この義を守って利を求めようとする人に富が来る。
 それは、乾いた物に火が付き、
 低い所に水が流れるのと同じである。
 銭が積もって尽きない時は、
 宴会・飲酒・歌唱・色事をやらず、住宅を飾らず、
 願望を叶えなくても、心は永遠に安楽である。」

大福長者の五箇条の教えは、かなり含蓄が深い。逐条解説しよう。

第1条 人の世が永遠に続くと思え

原文は
「人間常住の思ひに住して、仮にも無常を観ずる事なかれ」。

「人間」は今では一人一人の個人の意味しかないが、
もともとは人間世界の意味である。
鎌倉時代の当時にあってはどちらの意味でも使っていた。
個人は必ず死ぬから常住とはいえないので、
ここは人間世界の意味に捉える。

「常住」と「無常」は対になった仏教用語である。
鎌倉時代に成立した平家物語の冒頭に
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とあるように、
当時は諸行無常が流行思想であった。

諸行無常はもともと大乗仏典の般若経にある言葉である。
般若経によると、
「俗世の行いは無常だが仏陀は常住である」という。
「常住」とは永遠に生きるという意味であり、
「仏性常住」とは
「成仏すれば永遠の命が手に入るぞ」
という宣伝文句である。

永遠の命を望む煩悩に囚われていては、
とても悟りをひらけそうにもないが、
ともかく般若経はそのように説く。
鎌倉時代人の多くはそれを信じた。

こうした当時の風潮に対して、
大福長者は一人で異議を申し立てる。
「人間常住」すなわち「人間世界こそ永遠である」と。
しかも人間常住を念ずると金儲けできるという。

理由は書いてない。
次の第2条や第3条に関しては理由が書いてあるが、
第1条については
記録者の兼好法師が興味を持てなかったためか、
理由が残されていない。

ただ、第5条に約束を守れとあることと組み合わせて考えると、
理由が見えてくる。
「人間常住」とは、
「無限繰り返しゲームをプレイするつもりでおれ」
という意味であろう。

無限繰り返しゲームは
現代のゲーム理論で研究されるゲームの一種である。
商取引は常に囚人のジレンマの状況にある。
ということは以前の記事「商人のジレンマ」に書いた。

有限回の囚人のジレンマでは取引は成立しない。
しかし、無限繰り返しゲームでは、
囚人のジレンマから脱して、相互に得する状態に昇華できる。
ウィン・アンド・ウィンで商取引は成立する。

こうした無限繰り返しゲームのアイデアは、
1950年代にゲーム理論家の間で自然発生し、
1959年にオーマンというイスラエル人のゲーム理論家が
初めて発表した。

鎌倉時代の大福長者が、
本当に現代のゲーム理論と同じ考えをしていたかどうかは
兼好法師が書き残してくれなかったから分からない。
ただ、第5条に約束を守れとあることを見ると、
大福長者はゲーム理論と同じ発想をしていたと
解釈する以外に理解できない。

第2条 欲望を叶えるな

原文「万事の用を叶ふべからず」云々。

これは倹約の勧めである。
第1条と違って理由もちゃんと書いてある。
願望は無限で、金銭は有限だから、
いちいち願望を叶えていてはキリがない、
ということだ。

兼好法師はこの教えを批判して、
「人は願望を叶えるために銭を求めるものだから、
銭があっても使わないのでは貧乏と同じだ」
などと言っている。
兼好法師は荘園領主層の末端にいる不労所得者であるから
能天気な批判を加えて恥じない。

この条文は後世に最も影響を残した。
「金儲けするにはまず倹約しろ」
というのだから何といっても分かりやすい。
大福長者の教えの流れをくむ一連の書籍は必ず倹約を説く。
例えば、江戸時代初めに刊行された仮名草子「長者教」、
「大福新長者教」の副題を持つ井原西鶴「日本永代蔵」、
江戸中期から流行した石田梅岩の「都鄙問答」「斉家論」、
その他の商人道徳書の類い、
明治時代の福沢諭吉「民間経済録」など、
倹約を説かないものはない。

第3条 金銭を神のように尊べ

原文「銭を…君の如く神の如く畏れ尊みて従ひ用ゐる事なかれ」云々。

一見すると、拝金主義者か守銭奴を思わせる教えだが、
現代人は大福長者を笑えない。
現代人は、金銭を神に擬した「会社」という架空の存在を
創り出している。

鎌倉時代において寺社が経営体の一種であったように、
現代において会社は神々の一種である。
多くの人が会社を雇い主と仰いで仕えている。

大福長者が「銭を従えて用いてはならない」というのは
現代風にいえば「会社の金を私用で使い込むな」
という意味であって、
現代人は普通にやっていることだ。
鎌倉時代の当時は会社という制度がないので、
大福長者は自分の心の中に経営体をつくった。

当時にもイエという永続経営体があったが、
イエを組織したのは公家や武家などの上流社会に限られており、
商人はまだイエを組織していなかった。
その後、江戸時代になるとイエ制度が庶民に降りてきて、
商人もイエを組織するようになる。
こうして出来上がった商家において、
家産は先祖からの預かり物であり、
先祖の遺訓に従って運用するものであって、
イエの当主であっても私用に費やすことはできない。
家産をもって、先祖の神霊の所有物とみなしているわけだ。
明治時代になって会社制度が導入され、
経営体としては会社がイエを圧倒するようになって現代に至る。

会社は前に述べたようにお金の神霊に他ならない。
現代では大福長者の教えが社会に浸透している。
会社というお金の神霊に仕えることは、
現代人が普通にやっていることだ。

第4条 怒るな怨むな

原文「恥に臨むといふとも怒り怨むる事なかれ」。

理由は書いていない。
どうしてこれが金儲けに繋がるのか。
直ちに理解できないかもしれない。
おそらく次のような理由である。

不当な扱いを受けたら怒り怨み復讐する。
復讐を恐れる相手が不当な扱いを控えるようになり、
復讐する側が最終的に得をするケースがある。

しかし、復讐はコストを伴うから、戦略的な意図が無い限り、
復讐を怠けるようになる。
いちいち戦略的な思考をしなくても復讐を怠けないように、
怒りや怨みといった復讐感情が進化した。
そういう説が進化心理学で有力である。

復讐感情は人の心に埋め込まれた、
復讐を自動実行するプログラムである。
怒り怨みの感情を抱くという事は、
復讐の自動実行プログラムが作動中という事だ。

ところが、復讐しても最終的に得をしない場面であっても、
怒り怨みの感情が暴走してしまうと
余計な復讐をしてしまうことがある。
これは復讐プログラムの誤作動というべきものだが、
この誤作動が相当に根深く人の心に食い込んでいることは、
最後通告ゲームというゲームの実験でも確かめられている。

さて大福長者の状況を考えよう。
商売において、裏切られたからといって
わざわざコストをかけて復讐しなければならないかというと、
おそらくそういうケースは少ない。

商売で裏切った者、つまり債務不履行者は、
世間の評判を失い、取引停止処分を受けることで制裁を受ける。
裏切られた者がわざわざコストを負担してまで
復讐を遂げる必要はない。
この場合、復讐はコストがかかるだけ損である。
商売の場面で怒り怨みの感情は
復讐自動実行プログラムの誤作動でしかない。

さらに、復讐をちらつかせて相手の自制を求める場合、
復讐という脅しが信憑性を持つためには
相応の武力を見せつけなければならない。
武力は略奪の手段に転用し得る。
略奪の手段を見せつける者を
商取引の相手に選ぶのは危険である。
武力を見せつけると取引相手が見つからない。

山本七平は武士道と商人道を対比した。
復讐心は武士道に含まれる。
同じようにジェイコブズは、
統治の倫理と市場の倫理を対比した。
復讐心は統治の倫理に属する。

怒り怨みの復讐心を滅却せよという大福長者のアドバイスは、
「商売人たるものは、武士道や統治の倫理を捨てて、
商人道と市場の倫理に専念せよ。専念しなければ儲からんぞ」
というアドバイスであるといえる。

第5条 正直にして約束を守れ

原文は「正直にして約束を堅くせよ」。
このように兼好法師はさらりと書くだけで、
大福長者がこの教えを垂れた理由を書いてない。

一見すると正直にするとか約束を守るのは
当然の倫理のように聞こえる。
しかし、ここで大福長者は倫理を説いているのではなく、
金儲けの方法を説いているのだ。

大福長者曰く、正直者は得をする。何故なのか。

これとは真逆に、正直者は損をする、という諺があるが、
これは貧乏人の僻みに過ぎない。
「自分は正直者だが貧乏だ。豊かな奴は不正直に違いない」
などというように僻むから貧乏なのだ。
不正直者が商売できると思っているのか?

正直者であるとの評判を得なければ商売などできない。
このことの詳細は以前の記事「商人のジレンマ」に書いた。

また、無期限繰り返しゲームでなければ
正直にしていても商売は成立しない。
ここで大福長者の教えの第1条
「人の世が永遠に続くものと思え」
が生きてくる。
諸行無常などとうそぶいている者は商売人として信用ならん
ということだ。
商売人として信頼されるには、
無期限繰り返しゲームのなかで
評判を勝ち取る戦略を採っていることを
皆に知ってもらわないといけない。

このように、大福長者の教えは、
最初の第1条と最後の第5条が結びついて話が閉じる。
まことによくできた教えである。

しかし、正直者は得をする、という大福長者の教えは、
いまだになかなか浸透していないように思える。
正直者は得をするという思想の系譜については
別途書きたいと思う。

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