カテゴリー別アーカイブ: 進化ゲーム

商人のジレンマ/シグムンドの説明

以前の記事「商人のジレンマ」でこう書いた。
「囚人のジレンマという言葉の感じからすると、
 取り調べ室のような状況を想像してしまい、
 通常の経済活動とは無縁のもののように思えるかも知れない。
 本当は、交換という基本的な経済活動に当てはまるジレンマだ。

 単なる交換が囚人のジレンマの状況にあるということが
 指摘されるようになったのは、かなり最近のことのようで、
 私の探した限りでは青木(2000)が最初だ。」

経済学関係では青木(2000)1が今のところ最初だと思うが、
視野を進化ゲーム論にまで広げるともう少し早い例がある。
進化ゲーム理論家のシグムンドが1993年に書いている。

「ジレンマは囚人の話にかぎらない。たとえば、それはあらゆる商談についてまわるものなのである。両者は取引によって、お互いに利益を得ることができるが、ときには、一方的に、相手に荷を負わせることによって、もっと多くの利益を得る場合もあり得る。」2

シグムンドは、「あらゆる商談」が囚人のジレンマの状況にあることを指摘している。

続いてシグムンドは、取引を成り立たせる権威について語る。

「ふつうは、ある種の権威が裏切りの誘惑を抑えるようになっている。教育、法律、警察などの社会的圧力が、このような利己的な側面を抑えているのである。しかし、中央の権威が失われると、問題は深刻になるであろう。」2

シグムンドのいうことに付け加えることがあるとすれば、
現実には、たとえ中央の権威が盤石であっても、
実際の商取引で中央の権威は殆ど役に立っていない。
中央の権威は民事不介入だ。

また、権威もまたゲームの均衡として存立しているのだから、
権威が外的に強制力を行使するという想定は一貫性に欠けている。

権威による外的強制が効かない場合についてシグムンドは続ける。

「どのようにして、強制と良識のない競争者の間から協調関係を引き出せるであろうか? それはおそらく、繰り返しによって可能になるであろう。明らかに相手を裏切ろうとする対戦者達は、裏切りのために仲間を失っていくだろう。将来、さらに取引を続けていこうと思うなら、公平な取引をするのが大事なのである。 」2

とシグムンドは書いて、
そして、進化ゲーム理論の観点にもとづき、
繰り返しゲームから協調関係の成立する条件について
詳しく説明するのである。

無期限繰り返しゲームでなければ取引は成立し得ないことを明確に説いている。


  1. 青木昌彦 (2000)「財取引、契約、市場の私的秩序ガバナンス」『比較制度分析に向けて』第3章 
  2. シグムンド『数学でみた生命と進化』講談社ブルーバックス、1996年(原著1993年)、p384)。 
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徒然草の大福長者

兼好法師の書いた徒然草に、
ある大福長者から聞いた話が載っている。
大福長者というのは今でいえば大富豪のこと。
徒然草は鎌倉時代の終わり頃にまとめられたようだから、
この大福長者は鎌倉時代後期を生きた大富豪である。
この大福長者は金儲けの方法について次のように語ったという。

「人は何よりも一途に利益を得なさい。
 貧しくては生きる甲斐がない。
 富める者のみが人といえる。
 利益を得ようと思うなら、
 まず心の使い方を修業しなさい。
 その心というのは他でもない。

  1. 人の世が永続するものと思って、
    仮にも無常と思ってはならない。
    これが第一の用心である。
  2. 何でも用を叶えてはならない。
    人は皆、願望が無限である。
    欲に従って望みを遂げようと思えば、
    百万の銭があっても少しも続かない。
    願望は止むことがない。
    財は尽きる限度がある。
    限りある財をもって、限りない願を叶えることはできない。
    願望が心に生じかけたら、
    自分を滅ぼす悪念が来たものと堅く慎み恐れて、
    少しの用も為してはならない。
  3. 銭を召使いのように用いる物と考えれば、
    ずっと貧苦を免れることはない。
    主君のように神のように畏れ尊め。
    銭を従えて用いようとしてはならない。
  4. 恥辱を受けたとしても、怒ったり怨んだりしてはならない。
  5. 正直にして約束を堅く守りなさい。

 この義を守って利を求めようとする人に富が来る。
 それは、乾いた物に火が付き、
 低い所に水が流れるのと同じである。
 銭が積もって尽きない時は、
 宴会・飲酒・歌唱・色事をやらず、住宅を飾らず、
 願望を叶えなくても、心は永遠に安楽である。」

大福長者の五箇条の教えは、かなり含蓄が深い。逐条解説しよう。

第1条 人の世が永遠に続くと思え

原文は
「人間常住の思ひに住して、仮にも無常を観ずる事なかれ」。

「人間」は今では一人一人の個人の意味しかないが、
もともとは人間世界の意味である。
鎌倉時代の当時にあってはどちらの意味でも使っていた。
個人は必ず死ぬから常住とはいえないので、
ここは人間世界の意味に捉える。

「常住」と「無常」は対になった仏教用語である。
鎌倉時代に成立した平家物語の冒頭に
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とあるように、
当時は諸行無常が流行思想であった。

諸行無常はもともと大乗仏典の般若経にある言葉である。
般若経によると、
「俗世の行いは無常だが仏陀は常住である」という。
「常住」とは永遠に生きるという意味であり、
「仏性常住」とは
「成仏すれば永遠の命が手に入るぞ」
という宣伝文句である。

永遠の命を望む煩悩に囚われていては、
とても悟りをひらけそうにもないが、
ともかく般若経はそのように説く。
鎌倉時代人の多くはそれを信じた。

こうした当時の風潮に対して、
大福長者は一人で異議を申し立てる。
「人間常住」すなわち「人間世界こそ永遠である」と。
しかも人間常住を念ずると金儲けできるという。

理由は書いてない。
次の第2条や第3条に関しては理由が書いてあるが、
第1条については
記録者の兼好法師が興味を持てなかったためか、
理由が残されていない。

ただ、第5条に約束を守れとあることと組み合わせて考えると、
理由が見えてくる。
「人間常住」とは、
「無限繰り返しゲームをプレイするつもりでおれ」
という意味であろう。

無限繰り返しゲームは
現代のゲーム理論で研究されるゲームの一種である。
商取引は常に囚人のジレンマの状況にある。
ということは以前の記事「商人のジレンマ」に書いた。

有限回の囚人のジレンマでは取引は成立しない。
しかし、無限繰り返しゲームでは、
囚人のジレンマから脱して、相互に得する状態に昇華できる。
ウィン・アンド・ウィンで商取引は成立する。

こうした無限繰り返しゲームのアイデアは、
1950年代にゲーム理論家の間で自然発生し、
1959年にオーマンというイスラエル人のゲーム理論家が
初めて発表した。

鎌倉時代の大福長者が、
本当に現代のゲーム理論と同じ考えをしていたかどうかは
兼好法師が書き残してくれなかったから分からない。
ただ、第5条に約束を守れとあることを見ると、
大福長者はゲーム理論と同じ発想をしていたと
解釈する以外に理解できない。

第2条 欲望を叶えるな

原文「万事の用を叶ふべからず」云々。

これは倹約の勧めである。
第1条と違って理由もちゃんと書いてある。
願望は無限で、金銭は有限だから、
いちいち願望を叶えていてはキリがない、
ということだ。

兼好法師はこの教えを批判して、
「人は願望を叶えるために銭を求めるものだから、
銭があっても使わないのでは貧乏と同じだ」
などと言っている。
兼好法師は荘園領主層の末端にいる不労所得者であるから
能天気な批判を加えて恥じない。

この条文は後世に最も影響を残した。
「金儲けするにはまず倹約しろ」
というのだから何といっても分かりやすい。
大福長者の教えの流れをくむ一連の書籍は必ず倹約を説く。
例えば、江戸時代初めに刊行された仮名草子「長者教」、
「大福新長者教」の副題を持つ井原西鶴「日本永代蔵」、
江戸中期から流行した石田梅岩の「都鄙問答」「斉家論」、
その他の商人道徳書の類い、
明治時代の福沢諭吉「民間経済録」など、
倹約を説かないものはない。

第3条 金銭を神のように尊べ

原文「銭を…君の如く神の如く畏れ尊みて従ひ用ゐる事なかれ」云々。

一見すると、拝金主義者か守銭奴を思わせる教えだが、
現代人は大福長者を笑えない。
現代人は、金銭を神に擬した「会社」という架空の存在を
創り出している。

鎌倉時代において寺社が経営体の一種であったように、
現代において会社は神々の一種である。
多くの人が会社を雇い主と仰いで仕えている。

大福長者が「銭を従えて用いてはならない」というのは
現代風にいえば「会社の金を私用で使い込むな」
という意味であって、
現代人は普通にやっていることだ。
鎌倉時代の当時は会社という制度がないので、
大福長者は自分の心の中に経営体をつくった。

当時にもイエという永続経営体があったが、
イエを組織したのは公家や武家などの上流社会に限られており、
商人はまだイエを組織していなかった。
その後、江戸時代になるとイエ制度が庶民に降りてきて、
商人もイエを組織するようになる。
こうして出来上がった商家において、
家産は先祖からの預かり物であり、
先祖の遺訓に従って運用するものであって、
イエの当主であっても私用に費やすことはできない。
家産をもって、先祖の神霊の所有物とみなしているわけだ。
明治時代になって会社制度が導入され、
経営体としては会社がイエを圧倒するようになって現代に至る。

会社は前に述べたようにお金の神霊に他ならない。
現代では大福長者の教えが社会に浸透している。
会社というお金の神霊に仕えることは、
現代人が普通にやっていることだ。

第4条 怒るな怨むな

原文「恥に臨むといふとも怒り怨むる事なかれ」。

理由は書いていない。
どうしてこれが金儲けに繋がるのか。
直ちに理解できないかもしれない。
おそらく次のような理由である。

不当な扱いを受けたら怒り怨み復讐する。
復讐を恐れる相手が不当な扱いを控えるようになり、
復讐する側が最終的に得をするケースがある。

しかし、復讐はコストを伴うから、戦略的な意図が無い限り、
復讐を怠けるようになる。
いちいち戦略的な思考をしなくても復讐を怠けないように、
怒りや怨みといった復讐感情が進化した。
そういう説が進化心理学で有力である。

復讐感情は人の心に埋め込まれた、
復讐を自動実行するプログラムである。
怒り怨みの感情を抱くという事は、
復讐の自動実行プログラムが作動中という事だ。

ところが、復讐しても最終的に得をしない場面であっても、
怒り怨みの感情が暴走してしまうと
余計な復讐をしてしまうことがある。
これは復讐プログラムの誤作動というべきものだが、
この誤作動が相当に根深く人の心に食い込んでいることは、
最後通告ゲームというゲームの実験でも確かめられている。

さて大福長者の状況を考えよう。
商売において、裏切られたからといって
わざわざコストをかけて復讐しなければならないかというと、
おそらくそういうケースは少ない。

商売で裏切った者、つまり債務不履行者は、
世間の評判を失い、取引停止処分を受けることで制裁を受ける。
裏切られた者がわざわざコストを負担してまで
復讐を遂げる必要はない。
この場合、復讐はコストがかかるだけ損である。
商売の場面で怒り怨みの感情は
復讐自動実行プログラムの誤作動でしかない。

さらに、復讐をちらつかせて相手の自制を求める場合、
復讐という脅しが信憑性を持つためには
相応の武力を見せつけなければならない。
武力は略奪の手段に転用し得る。
略奪の手段を見せつける者を
商取引の相手に選ぶのは危険である。
武力を見せつけると取引相手が見つからない。

山本七平は武士道と商人道を対比した。
復讐心は武士道に含まれる。
同じようにジェイコブズは、
統治の倫理と市場の倫理を対比した。
復讐心は統治の倫理に属する。

怒り怨みの復讐心を滅却せよという大福長者のアドバイスは、
「商売人たるものは、武士道や統治の倫理を捨てて、
商人道と市場の倫理に専念せよ。専念しなければ儲からんぞ」
というアドバイスであるといえる。

第5条 正直にして約束を守れ

原文は「正直にして約束を堅くせよ」。
このように兼好法師はさらりと書くだけで、
大福長者がこの教えを垂れた理由を書いてない。

一見すると正直にするとか約束を守るのは
当然の倫理のように聞こえる。
しかし、ここで大福長者は倫理を説いているのではなく、
金儲けの方法を説いているのだ。

大福長者曰く、正直者は得をする。何故なのか。

これとは真逆に、正直者は損をする、という諺があるが、
これは貧乏人の僻みに過ぎない。
「自分は正直者だが貧乏だ。豊かな奴は不正直に違いない」
などというように僻むから貧乏なのだ。
不正直者が商売できると思っているのか?

正直者であるとの評判を得なければ商売などできない。
このことの詳細は以前の記事「商人のジレンマ」に書いた。

また、無期限繰り返しゲームでなければ
正直にしていても商売は成立しない。
ここで大福長者の教えの第1条
「人の世が永遠に続くものと思え」
が生きてくる。
諸行無常などとうそぶいている者は商売人として信用ならん
ということだ。
商売人として信頼されるには、
無期限繰り返しゲームのなかで
評判を勝ち取る戦略を採っていることを
皆に知ってもらわないといけない。

このように、大福長者の教えは、
最初の第1条と最後の第5条が結びついて話が閉じる。
まことによくできた教えである。

しかし、正直者は得をする、という大福長者の教えは、
いまだになかなか浸透していないように思える。
正直者は得をするという思想の系譜については
別途書きたいと思う。

【映画】ペイ・フォワード

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2000年米国映画。

世界の変え方を考える作品。
『シックスセンス』で有名な
天才子役ハーレイ・ジョエル・オスメントが主人公を演じる。

主人公のトレバー君は賢い中学一年生。
世界を変える方法を考えなさいという宿題に対して
ペイフォワードという仕組みを考案する。

ペイフォワードとは、
自分が受けた思いやりを、
その相手に返すのではなく、別の三人に与える。
与えられた人も更に別の三人に与える。
・・・という連鎖を繰り返していけば
世界に思いやりの輪が広がってゆく。
このような思いやりのネズミ講がペイフォワードだ。

トレバー君も映画製作者も気付いていないが、
これは進化論で間接互恵と呼ばれるものだ。
「情けは人の為ならず、回りまわって己がため」
という諺が示すメカニズムだ。

しかも、これは、現実の人間社会で既に実施されている。
クレジットカードによる商品の購入がそれだ。
商品の購入は、商品の流れだけをみると、
販売者から商品を貰っていることにほかならない。
これは即ち、思いやりを受け取ることだ。
そして思いやりを商品の販売者に直接返すのではなく、
自分の仕事をして、第三者に商品を提供する。
お金の流れをみれば、
仕事をして所得を得てカードの借金を返すのだが、
商品の流れをみれば、
第三者に思いやりを渡していることにほかならない。

経済活動には、
思いやりというラベルリングはなされていないが、
実態は思いやりの連鎖なのだ。
ペイフォワードと同じものだ。

ポイントは、自分は思いやりを受け取るだけ受け取って、
誰にも思いやりを与えないという「裏切り者」がいた場合、
これを排除する仕組みが必要であるということだ。

クレジットカードは、裏切り者を排除する仕組みの一つだ。
トレバー君のペイフォワードも、
クレジットカードのような裏切り者を排除する仕組みを
伴わない限り、うまくいかないことは目に見えている。
この映画が悲劇的なエンディングを迎えるのもやむを得ない。

裏切り者を排除する仕組みの必要性について
映画製作者が気付いていたら、
天才少年の社会イノベーション物語として成立していただろう。

たとえば今の日本で第二地方銀行に分類される銀行は、
もとは中世に庶民の間で自然発生した無尽講という相互扶助組織だ。
トレバー君の構想は、新手の相互扶助組織として
無尽講のように発展する可能性を秘めていたのだ。

しかし、それには裏切り者排除の仕組みが不可欠だ。
この映画がそこまで描くことができず、
悲劇的結末にせざるを得なかったことは残念だ。
が、仕方がない。