カテゴリー別アーカイブ: 長文

徒然草の大福長者

兼好法師の書いた徒然草に、
ある大福長者から聞いた話が載っている。
大福長者というのは今でいえば大富豪のこと。
徒然草は鎌倉時代の終わり頃にまとめられたようだから、
この大福長者は鎌倉時代後期を生きた大富豪である。
この大福長者は金儲けの方法について次のように語ったという。

「人は何よりも一途に利益を得なさい。
 貧しくては生きる甲斐がない。
 富める者のみが人といえる。
 利益を得ようと思うなら、
 まず心の使い方を修業しなさい。
 その心というのは他でもない。

  1. 人の世が永続するものと思って、
    仮にも無常と思ってはならない。
    これが第一の用心である。
  2. 何でも用を叶えてはならない。
    人は皆、願望が無限である。
    欲に従って望みを遂げようと思えば、
    百万の銭があっても少しも続かない。
    願望は止むことがない。
    財は尽きる限度がある。
    限りある財をもって、限りない願を叶えることはできない。
    願望が心に生じかけたら、
    自分を滅ぼす悪念が来たものと堅く慎み恐れて、
    少しの用も為してはならない。
  3. 銭を召使いのように用いる物と考えれば、
    ずっと貧苦を免れることはない。
    主君のように神のように畏れ尊め。
    銭を従えて用いようとしてはならない。
  4. 恥辱を受けたとしても、怒ったり怨んだりしてはならない。
  5. 正直にして約束を堅く守りなさい。

 この義を守って利を求めようとする人に富が来る。
 それは、乾いた物に火が付き、
 低い所に水が流れるのと同じである。
 銭が積もって尽きない時は、
 宴会・飲酒・歌唱・色事をやらず、住宅を飾らず、
 願望を叶えなくても、心は永遠に安楽である。」

大福長者の五箇条の教えは、かなり含蓄が深い。逐条解説しよう。

第1条 人の世が永遠に続くと思え

原文は
「人間常住の思ひに住して、仮にも無常を観ずる事なかれ」。

「人間」は今では一人一人の個人の意味しかないが、
もともとは人間世界の意味である。
鎌倉時代の当時にあってはどちらの意味でも使っていた。
個人は必ず死ぬから常住とはいえないので、
ここは人間世界の意味に捉える。

「常住」と「無常」は対になった仏教用語である。
鎌倉時代に成立した平家物語の冒頭に
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とあるように、
当時は諸行無常が流行思想であった。

諸行無常はもともと大乗仏典の般若経にある言葉である。
般若経によると、
「俗世の行いは無常だが仏陀は常住である」という。
「常住」とは永遠に生きるという意味であり、
「仏性常住」とは
「成仏すれば永遠の命が手に入るぞ」
という宣伝文句である。

永遠の命を望む煩悩に囚われていては、
とても悟りをひらけそうにもないが、
ともかく般若経はそのように説く。
鎌倉時代人の多くはそれを信じた。

こうした当時の風潮に対して、
大福長者は一人で異議を申し立てる。
「人間常住」すなわち「人間世界こそ永遠である」と。
しかも人間常住を念ずると金儲けできるという。

理由は書いてない。
次の第2条や第3条に関しては理由が書いてあるが、
第1条については
記録者の兼好法師が興味を持てなかったためか、
理由が残されていない。

ただ、第5条に約束を守れとあることと組み合わせて考えると、
理由が見えてくる。
「人間常住」とは、
「無限繰り返しゲームをプレイするつもりでおれ」
という意味であろう。

無限繰り返しゲームは
現代のゲーム理論で研究されるゲームの一種である。
商取引は常に囚人のジレンマの状況にある。
ということは以前の記事「商人のジレンマ」に書いた。

有限回の囚人のジレンマでは取引は成立しない。
しかし、無限繰り返しゲームでは、
囚人のジレンマから脱して、相互に得する状態に昇華できる。
ウィン・アンド・ウィンで商取引は成立する。

こうした無限繰り返しゲームのアイデアは、
1950年代にゲーム理論家の間で自然発生し、
1959年にオーマンというイスラエル人のゲーム理論家が
初めて発表した。

鎌倉時代の大福長者が、
本当に現代のゲーム理論と同じ考えをしていたかどうかは
兼好法師が書き残してくれなかったから分からない。
ただ、第5条に約束を守れとあることを見ると、
大福長者はゲーム理論と同じ発想をしていたと
解釈する以外に理解できない。

第2条 欲望を叶えるな

原文「万事の用を叶ふべからず」云々。

これは倹約の勧めである。
第1条と違って理由もちゃんと書いてある。
願望は無限で、金銭は有限だから、
いちいち願望を叶えていてはキリがない、
ということだ。

兼好法師はこの教えを批判して、
「人は願望を叶えるために銭を求めるものだから、
銭があっても使わないのでは貧乏と同じだ」
などと言っている。
兼好法師は荘園領主層の末端にいる不労所得者であるから
能天気な批判を加えて恥じない。

この条文は後世に最も影響を残した。
「金儲けするにはまず倹約しろ」
というのだから何といっても分かりやすい。
大福長者の教えの流れをくむ一連の書籍は必ず倹約を説く。
例えば、江戸時代初めに刊行された仮名草子「長者教」、
「大福新長者教」の副題を持つ井原西鶴「日本永代蔵」、
江戸中期から流行した石田梅岩の「都鄙問答」「斉家論」、
その他の商人道徳書の類い、
明治時代の福沢諭吉「民間経済録」など、
倹約を説かないものはない。

第3条 金銭を神のように尊べ

原文「銭を…君の如く神の如く畏れ尊みて従ひ用ゐる事なかれ」云々。

一見すると、拝金主義者か守銭奴を思わせる教えだが、
現代人は大福長者を笑えない。
現代人は、金銭を神に擬した「会社」という架空の存在を
創り出している。

鎌倉時代において寺社が経営体の一種であったように、
現代において会社は神々の一種である。
多くの人が会社を雇い主と仰いで仕えている。

大福長者が「銭を従えて用いてはならない」というのは
現代風にいえば「会社の金を私用で使い込むな」
という意味であって、
現代人は普通にやっていることだ。
鎌倉時代の当時は会社という制度がないので、
大福長者は自分の心の中に経営体をつくった。

当時にもイエという永続経営体があったが、
イエを組織したのは公家や武家などの上流社会に限られており、
商人はまだイエを組織していなかった。
その後、江戸時代になるとイエ制度が庶民に降りてきて、
商人もイエを組織するようになる。
こうして出来上がった商家において、
家産は先祖からの預かり物であり、
先祖の遺訓に従って運用するものであって、
イエの当主であっても私用に費やすことはできない。
家産をもって、先祖の神霊の所有物とみなしているわけだ。
明治時代になって会社制度が導入され、
経営体としては会社がイエを圧倒するようになって現代に至る。

会社は前に述べたようにお金の神霊に他ならない。
現代では大福長者の教えが社会に浸透している。
会社というお金の神霊に仕えることは、
現代人が普通にやっていることだ。

第4条 怒るな怨むな

原文「恥に臨むといふとも怒り怨むる事なかれ」。

理由は書いていない。
どうしてこれが金儲けに繋がるのか。
直ちに理解できないかもしれない。
おそらく次のような理由である。

不当な扱いを受けたら怒り怨み復讐する。
復讐を恐れる相手が不当な扱いを控えるようになり、
復讐する側が最終的に得をするケースがある。

しかし、復讐はコストを伴うから、戦略的な意図が無い限り、
復讐を怠けるようになる。
いちいち戦略的な思考をしなくても復讐を怠けないように、
怒りや怨みといった復讐感情が進化した。
そういう説が進化心理学で有力である。

復讐感情は人の心に埋め込まれた、
復讐を自動実行するプログラムである。
怒り怨みの感情を抱くという事は、
復讐の自動実行プログラムが作動中という事だ。

ところが、復讐しても最終的に得をしない場面であっても、
怒り怨みの感情が暴走してしまうと
余計な復讐をしてしまうことがある。
これは復讐プログラムの誤作動というべきものだが、
この誤作動が相当に根深く人の心に食い込んでいることは、
最後通告ゲームというゲームの実験でも確かめられている。

さて大福長者の状況を考えよう。
商売において、裏切られたからといって
わざわざコストをかけて復讐しなければならないかというと、
おそらくそういうケースは少ない。

商売で裏切った者、つまり債務不履行者は、
世間の評判を失い、取引停止処分を受けることで制裁を受ける。
裏切られた者がわざわざコストを負担してまで
復讐を遂げる必要はない。
この場合、復讐はコストがかかるだけ損である。
商売の場面で怒り怨みの感情は
復讐自動実行プログラムの誤作動でしかない。

さらに、復讐をちらつかせて相手の自制を求める場合、
復讐という脅しが信憑性を持つためには
相応の武力を見せつけなければならない。
武力は略奪の手段に転用し得る。
略奪の手段を見せつける者を
商取引の相手に選ぶのは危険である。
武力を見せつけると取引相手が見つからない。

山本七平は武士道と商人道を対比した。
復讐心は武士道に含まれる。
同じようにジェイコブズは、
統治の倫理と市場の倫理を対比した。
復讐心は統治の倫理に属する。

怒り怨みの復讐心を滅却せよという大福長者のアドバイスは、
「商売人たるものは、武士道や統治の倫理を捨てて、
商人道と市場の倫理に専念せよ。専念しなければ儲からんぞ」
というアドバイスであるといえる。

第5条 正直にして約束を守れ

原文は「正直にして約束を堅くせよ」。
このように兼好法師はさらりと書くだけで、
大福長者がこの教えを垂れた理由を書いてない。

一見すると正直にするとか約束を守るのは
当然の倫理のように聞こえる。
しかし、ここで大福長者は倫理を説いているのではなく、
金儲けの方法を説いているのだ。

大福長者曰く、正直者は得をする。何故なのか。

これとは真逆に、正直者は損をする、という諺があるが、
これは貧乏人の僻みに過ぎない。
「自分は正直者だが貧乏だ。豊かな奴は不正直に違いない」
などというように僻むから貧乏なのだ。
不正直者が商売できると思っているのか?

正直者であるとの評判を得なければ商売などできない。
このことの詳細は以前の記事「商人のジレンマ」に書いた。

また、無期限繰り返しゲームでなければ
正直にしていても商売は成立しない。
ここで大福長者の教えの第1条
「人の世が永遠に続くものと思え」
が生きてくる。
諸行無常などとうそぶいている者は商売人として信用ならん
ということだ。
商売人として信頼されるには、
無期限繰り返しゲームのなかで
評判を勝ち取る戦略を採っていることを
皆に知ってもらわないといけない。

このように、大福長者の教えは、
最初の第1条と最後の第5条が結びついて話が閉じる。
まことによくできた教えである。

しかし、正直者は得をする、という大福長者の教えは、
いまだになかなか浸透していないように思える。
正直者は得をするという思想の系譜については
別途書きたいと思う。

広告

商人のジレンマ

1940年にロンドンで生まれたケン少年は、
商店主が代金を受け取って商品を引き渡すことを
不思議に思っていた。
商店主が代金をそのままポケットにしまうだけで
商品を引き渡さない、
ということをしないのは何故なのか?

ケン少年はやがて数学者になりゲーム理論を研究する。
この少年時代の疑問をケン・ビンモアが回想して
著書に記したの七十才近くになってからだ(Binmore 2007)。
このケン少年の疑問こそ、
経済学者が長年気付きそうで気付かなかった大問題なのだ。

一回限りの交換は成立しない

あなたが誰かと物を交換する。
自分の持ち物も大事だが、
それより相手の持ち物を手に入れたほうが得をする。
相手も同じで、
自分の物よりあなたの物が欲しい。
持ち物を交換すればお互いに得をする。
ウィン&ウィンだ。

相手に会うのはこれ一回きりとしよう。
一回限りということは
お互いに匿名で覆面しているようなものだ。
この状況で、持ち物を交換できるか?

経済学では対立する二通りの考え方がある。
簡単に交換できるという伝統的な考え方と、
絶対に交換できないという新しい考え方だ。

良識的に考えれば問題なく交換できそうだ。
交換して互いに得するなら、
交換を約束して互いに自分の物を相手に渡せばいい。
人には生まれつき交換性向があるとアダム・スミスは述べた。
それ以来の伝統のためか、
普通の経済学は簡単に交換できることを前提にして話を進める。

しかしよく考えてみよう。相手は善人なのか?
匿名覆面の相手は信用ならない。
相手はあなたを裏切るかもしれない。
あなたの渡した物を受け取っておきながら、
自分の物を渡さずに手元に残せば、相手は得をする。
相手が本当に利己的で合理的ならば、必ずあなたを裏切る。
裏切られるぐらいなら、こちらも渡さないほうが得だ。
相手も同じように考えるだろう。

あなた自身が人を裏切るような小悪党ではないとしても、
相手が信じてくれなければしかたがない。
裏切れば得をするのだから相手の裏切りを疑うのが合理的だ。
互いに裏切りを疑えば、互いに持ち物を渡さない。
交換できない、という結果に陥る。
互いに協力すれば良い結果になることは分かっていても、
互いに裏切られるのを疑って、協力できない均衡に陥る。
これは非協力ゲーム理論でいう囚人のジレンマそのものだ。

囚人のジレンマという言葉の感じからすると、
取り調べ室のような状況を想像してしまい、
通常の経済活動とは無縁のもののように思えるかも知れない。
本当は、交換という基本的な経済活動に当てはまるジレンマだ。

単なる交換が囚人のジレンマの状況にあるということが
指摘されるようになったのは、かなり最近のことのようで、
私の探した限りでは青木(2000)が最初だ。
だから、この事実に気付いている経済学者はまだ少ない。

渡すタイミングをずらしても取引不成立

一回限りの交換は成立しないという見方に疑問を抱く人は、
二人が同時に渡そうとするから駄目なのであって、
一方が先に渡して他方が後で渡すという約束を結べば、
うまく取引が成立するのではないか、
と考えるかもしれない。
しかしタイミングをずらしても取引は成立しない。

取引が成立しないわけは次の通りだ。
先手の立場になって考えてみよう。
先に渡しても後手が渡し返してくれる保証はない。
後手が利己的ならば貰うだけ貰って自分は渡さずに済ますだろう。
先手は渡すだけ損だから、渡さないのが得策だ。
先手が渡さないので後手も渡さない。

では、何かの手違い先手が渡したら後手はどうするか。
後手は貰いっぱなしで自分は相手に渡さぬほうが得だ。
後手が合理的ならは渡さない。やはり取引は成立しない。

これはゲーム理論で信頼ゲームと呼ばれる(Binmore 2004)。
一方的囚人のジレンマとも呼ばれる(Greif 2005)。
進化ゲームでは直接互恵と呼ばれるようだ(Nowak 2006)。
どの呼び名にせよ、一回限りであれば取引は不成立で終わる。

囚人のジレンマと信頼ゲーム(一方的囚人のジレンマ)を
ひっくるめて商人のジレンマと呼びたいと思う。
私独自の用語法なので商標登録したい(かも)。

ここでの結論は、
商人のジレンマにおいて一回限りの取引は成立しない、
絶対に。ということだ。

評判の役割

路地裏で覆面をした人物が物を売っていたらあなたは買うか?
買わないだろう。
怪しげな覆面の人物は裏切っても失うものはない。
裏切るに違いない。
だからあなたは買わない。

同じようにインターネット上で
完全な匿名の人が物を売っていたらあなたは買うか?
やはり買わないだろう。
少なくとも、相手が完全匿名ではなく、
たとえばオークションサイトに登録していて、
それなりに善良な取引履歴が記録されていて
初めて購入を検討するのではないか。

鍵となるのは評判(レピュテーション)だ。

取引の合意を裏切ったら悪い評判が立ち、
悪い評判が立てば今後の取引機会を失い、
取引を失えば不利益を受けるとなれば、
相手は不利益を恐れて裏切らないに違いない。
互いにそのことを知っていれば取引を履行するだろう。
これで取引成立だ。

ここで取引を正直に履行するのは、
道徳観念に導かれた善き行いなどでは全然なく、
あくまで利に釣られた合理的行動である点に注意しよう。

評判を持つには少なくとも名前が付いていないといけない。
評判は名前に憑くからだ。
オークションサイトの参加者には
ハンドル名にしろ何にしろ名前が付いている。
ハンドル名と実名との関連は運営会社が管理している。
決して匿名ではない。

そもそも名前というのは、
その場にいない人の評判を噂するためのものだ。
人類が発明した社会ツールなのだ。

同時に引き渡す交換の場合、
双方が名前を持っていないといけない。
どちらかが匿名では、匿名者が裏切る。
そのように相手が疑うので交換は不成立に終わる。

では、先ほどみた
信頼ゲーム(一方的囚人のジレンマ)
の場合はどうか。

信頼ゲームでは引き渡すタイミングをずらす。
後から渡す後手には名前が必須だが、
先に渡す先手は匿名で構わない。
そのわけは、後手がきちんと引き渡すという評判さえあれば、
先手に評判がなくても、
先手が後手の評判を知っていて、
先に物を引き渡しさえすれば、
両者の間で取引は成立するからだ。

信頼ゲームでいう信頼とは、
後手が信頼できるかどうかが問われるという意味だ。
後手は評判を保つことで利益を受ける。
そのことを先手が知っていれば、
先手は後手を信頼する。
後手は裏切ったら評判を失う。

現実を考えても、匿名は先手だ。
匿名の買い手は先に代金を払ってから店を出ることを許される。
匿名なのに「後で払いますから」と言って
店を出ていくことはあり得ない。

先手が匿名であってもいいが、
後手は匿名であっては取引は成立しない。
匿名の後手は貰いっぱなしで逃げてしまえば得するだろう
と先手が疑うので取引にならないからだ。
現実の小売り取引でも、たとえ買い手が匿名であっても、
売り手は何らかの評判を持っていのが普通だ。

無期限でなければ取引は成立しない

取引当事者の少なくとも一方が評判を持てば、
取引が成立する可能性が開かれる。

しかし、もし取引機会に決まった最終回があるとすると、
それ以前の全期間で取引が成立しなくなる。
このことを示すには少々長くなるが、つきあって読んで欲しい。

まず、次のように考えよう。
ある取引において評判を要する側が
今後誰とも取引する機会を持たない場合、
その取引は成立しない。そのわけは、
評判は今後の取引機会を失わないためにあるからだ。
取引機会がこの取引が最後だとすると、
今後ということはないのだから、
この取引で裏切って評判を失っても
取引機会を失うことはない。
裏切らない動機がなくなる。
むしろ裏切ることで利益を得る。
少なくとも相手は裏切られると予想する。
したがって取引機会の最終回では取引は成立しない。

さらに、
最終回の直前でもやはり取引は成立しない、
ということを示そう。
最終回では取引は成立しないことは先に見た。
その直前ではどうか。
次の取引機会である最終回では取引が成立しない
と取引当事者は予想する。
すると今約束を守って評判を保っても
最終回に取引が可能になるわけではない。
評判を失っても失うものはない。
裏切らない動機はない。
むしろ裏切ることで今利益を得る。
少なくとも相手は裏切られると予想する。
したがって最後回の直前でも取引は成立しない。

直前の直前も同じ理由で取引は成立しない。
このお話を一つづ手前に適用していくと
全期間で取引が成立しない。
こういうロジックを
後ろ向き帰納法(バックワード・インダクション)
という。
ゲーム理論で使われるロジックだ。

決まった最終回があると、後ろ向き帰納法の呪いにより、
最終回のの手前の全期間で取引が成立しなくなる。
したがって、
取引が成立するには決まった最終回があってはならない。

決まった最終回のないゲームを、
無期限繰り返しゲームという。
取引は無期限繰り返しゲームでないと成立しないのだ。

このように無期限繰り返しゲームの中で生まれる均衡を
ビンモアは創発現象と呼んでいる(Binmore 2004,2007)。
取引は創発現象なのだ。

ビンモアのいう創発現象は、
こうした個々の取引だけではない。
よくよく考えると、
マネーや企業や国家や法といった文明社会的な存在は
何でもかんでも創発現象である。
つまり無限繰り返しゲームの中でないと生まれない。
この点は話が拡散するから別の機会に譲ろう。

長くなったが、結論は、
あらゆる取引は、
無期限繰り返しゲームの中でしか
成立しない
ということだ。

まとめ

というわけで
我々が日常何気なしに買い物できるのも
無期限繰り返しゲームの中で
評判を気にする売り手が存在しているからだ。

少し長くなったが、ビンモアの少年時代の疑問はこうして解ける。

参考文献

  • Binmore,K.(2004) “Reciprocity and the social contract,” politics,philosophy & economics.
  • Binmore,K.(2007) Game Theory: A Very Short Introduction. 金澤悠介・海野道郎訳『ゲーム理論 (〈1冊でわかる〉シリーズ)』2010年
  • Greif,A.(2005) Institutions and the Path to the Modern History. 岡崎哲二・神取道宏監訳『比較歴史制度分析』2009年
  • Nowak,M.(2006)”Five rules for the evolution of cooperation,” Science.
  • 青木昌彦 (2000)「財取引、契約、市場の私的秩序ガバナンス」『比較制度分析に向けて』第3章

ニューマネタリスト

ニューマネタリストという学派が存在します。ふつうは学派なんてものは外から貼るレッテルだったりするので本当に実在するのか怪しいものですが、ニューマネタリストの場合は学派を自称しているから本当に実在するといっていいでしょう。

ニューマネタリストは、ミネアポリス連銀を中心とした米国地区連銀やその周辺の大学を拠点に地道に活動しているようです。地区連銀は箔をつけるためにシニョレッジのおこぼれをバラ撒いて学者をスタッフとして雇ったりしているのですが、ニューマネタリストというのもその一種のようです。

主唱者の一人であるウィリアムソンは、ニューマネタリストと題する自身のブログで「マネーはバブルなり!」と述べて物議をかもしたりする人なので、我がバブル経済研究所としては見逃せません。なお、我がバブル経済研究所はバブリオニストという学派でありまして、ニューマネタリストとは違います。

ニューマネタリストを学派として立ち上げる際にウィリアムソンたちは「ニューマネタリスト経済学」と題する論文を二本発表しました。そのうち一本目の論文について、要約とイントロ部分だけを翻訳したのが本記事です。これを読めばニューマネタリストとは何なのか分かると思います。

原文のスタッフレポート版のPDFはこちら↓
http://www.minneapolisfed.org/research/sr/sr442.pdf
最終的にセントルイス連銀のレビューに掲載されました。

では始まり始まり~


ミネアポリス連邦銀行
調査局スタッフレポート442
2010年4月

ニューマネタリスト経済学:方法

ステファン・ウィリアムソン

セントルイス・ワシントン大学
リッチモンド連邦銀行とセントルイス連邦銀行

ランダル・ライト

ウィスコンシン大学マディソン校
ミネアポリス連邦銀行とフィラデルフィア連邦銀行

〔要旨とイントロのみ訳出〕

要旨

本論はニューマネタリズムの原理と実践を明示する。ニューマネタリズムとは、マネーや銀行業務や支払や資産市場に関する最近の研究の主要部分について我々が貼ったラベルである。最初に、我々のアプローチと他を区別する方法論的な問題を検討する。ニューマネタリズムはオールドマネタリズムと共通するものがあるが、重要な違いもある。ケインジアニズムとは共通するところが殆どない。各学派の原理を解説して、我々のアプローチと比較する。ニューマネタリスト・モデルが実際にどのように動くか示すために、ベンチマーク・モデルをつくって、インフレのコストや流動性や資産取引などの諸問題を検討する。銀行業務の新しいモデルも開発する。

1.イントロ

本論の目的は、ニューマネタリスト経済学という学派の原理と実践を明示することである。姉妹編である Williamson and Wright (2010) は、この文脈で使われるモデルを更にサーベイし、専ら技術的な論点に専ら着目しており、方法論や思想史を扱っていない。
同論文では我々のアプローチが実際に動く様子を示すために若干の技術的な資料を発表するが、本論では、より詳しくニューマネタリズムの定義について議論したい。
今やこの分野に大量の研究があるが、おそらく、これにラベルをつけることは説明に値する。
オールド・マネタリスト経済学は、ミルトン・フリードマンとその後継者の著作に集約されるが、我々はオールドマネタリストと重要な方向性で一致しないので、ニューマネタリストを自称する。
我々は新旧ケインジアンとは殆ど共通点がない。その理由は、マネー経済学へのアプローチの点、マクロ経済学のミクロ的基礎の点、名目硬直性が歪みの鍵であると信じて関心を集中する点、が挙げられる。
以下では、より詳しく、学派の原理について述べて、アプローチを区別したい。

そうする理由の一つは次の通り。オールドケインジアニズムの古き良き時代でさえ、オールドマネタリストが反対の見解を示したのは健全であったと思う。
少なくとも当時の人々への警告と解釈できる。
当時の人々は、マクロとマネーの経済学を解決済みの問題と考えていたが、それは後になって思うと早まった考えであったのは明らかだ。
人々が問題が解決されると思ったという主張は文書で十分に裏付けらる。 Leijonhufvud (1968) の引用によると、ソロウは次のような気持ちを語った。

大部分の経済学者は、短期マクロ経済理論が殆ど手に入っていると感じていると思う。…優勢な理論の基本的な枠組みは、何年も変わらなかった。残るは空箱を満たす些末な仕事でしかない。それは最大限努力して五十年もかからないだろう。

少なくとも最近の出来事〔金融危機〕の前は、ニューケインジアン・コンセンサスがあったというのが多数意見だったようだ。そして、1960年代と同じように楽天的だった。
現在ニューケインジアニズムに代わるものがあると多くの人々が認めるならば、より健全だろう。
我々は、代わりにニューマネタリズムを称する。

「『ニューケインジアニズムはマクロ経済現象を分析するのに最も役に立つアプローチであって中央銀行の政策を導く』と考えるのは少なくとも政策を指向する経済学者の間でコンセンサスである」と人々は感じている。その証拠は多くの場所で見つかる(例えば Goodfriend 2007 参照)。
これが少々驚くべきことだ。ニューケインジアン・フレームワークに根本的な欠陥があるという見方に共感する者も多い。
それから、我々はニューケインジアニズムが巷で唯一のゲームでないと思い、また、アプローチの仕方を議論する意義があると思う。このように思う者が、十分に力強く明快に意見を述べていないことも事実である。
一つに、本論は、今の状況の改善と、より好ましい議論の促進を試みる。
我々が想い描くニューマネタリストとニューケインジアンの関係は、1960年代と1970年代における議論と類似する点があるが、それ以来経済学で方法と言語の多くが変わったから当時とは違う点もある。
対話を21世紀に持ってくるには、ニューマネタリストが何をしているか、そして何故そうするのかについて述べる必要がある。

ニューマネタリストは、ここ数十年間で開発された、マネーの理論と政策、銀行業務、金融仲介、支払い、資産市場の研究の全体を含む。
マネー経済学は、世代重複モデルを使った Lucas (1972)や Kareken and Wallace (1980)所載論文のような影響力のある業績を含む。これには、もちろん Samuelson (1958)という先例が存在する。
最近では、多くのマネー理論がサーチとマッチングのアプローチを採用している。初期の例は Kiyotaki and Wright (1989)の例があるが、これにも先例として、Jones (1976) や Diamond (1984)がある。
銀行業務と金融仲介と支払いの経済学は、主に1970年代で起こった情報理論の進歩を基にしている。Diamond and Dybvig (1983)、Diamond (1984)、 Williamson (1986 and 1987a)、 Bernanke and Gertler (1989)、 Freeman (1996)のような論文がある。
資産市場とファイナンスに関しては、Duffie, Gârleanu, and Pederson (2005) や Lagos and Rocheteau (2009)といった仕事がある。
この研究の多くは抽象的で理論的だが、最近は経験的で政策的な論点に関心が向いている。

この仕事を統一するものを説明するために、第1節で、我々が他の学派の特徴を何とみなすかについて説明し、ニューマネタリストは何が違うのかを述べる。
それから、我々のアプローチを導く原理を宣言する。
ニューマネタリストはおよそ次のことに同意すると思う。

原理1。ミクロ的基礎が重要だ。そして、政策議論を含むマクロとマネーの経済学の建設的な分析は、内部的に一貫した健全な経済理論にこだわる必要がある。

原理2。マネーが重要だ。そして、マネー現象と金融政策を理解するための探求において、マネーの役割を生み出す摩擦を最初に明示するモデルを使うのが決定的によい。Wallace (1998) 曰く「マネー経済学においてマネーが原始的であってはいけない。

原理3。金融仲介が重要だ。例えば、銀行負債と通貨は交換媒介物としての似し役割を果たすことがある。銀行負債と通貨を別々に扱うと、多くの論点で道を誤りかねない。

原理4。マネーや金融仲介機関の役割を引き起こす摩擦をモデル化する際に、抽象性と扱いやすさの適切なレベルを見極めなければならない。例えば世代重複モデルにおいて人々が2期間生きるといった設定や、サーチモデルにおいて人々が全くランダムに出会うといった設定は、非現実的かもしれないが無駄なものではない。

原理5。一つのモデルがマネー経済学の全問題を扱う汎用車両であってはならないが、様々な問題に適用される、似たような仮定と技術装置を使用するフレームワークやモデルの類があることは望ましい。

これらの原理が全て広く受け入れられるわけではないことは明らかだ。
原理2(マネーが重要だ)を考えよう。金融政策分析に使われる近頃流行のモデルでは、マネーも銀行も金融機関もないので、原理2は守られない。マネーを考慮する場合は、事前現金制約を仮定したり、効用関数や生産関数にマネーを入れて誤魔化す。国債や銀行準備金を生産関数や効用関数に入れることすらある。
たとえ、これらの原理の一部が大部分の経済学者に受け入れられても、それは程度の問題だ。
原理4(適切な抽象化)を考えよう。役に立つ経済モデルが必ずしも現実的であるわけではないと誰もが教わる。しかし、世代重複やマネーサーチのモデルが、主に現実性の欠如の点で厳しく批判されることがある。また、原理1(ミクロ的基礎が重要だ)を決まり文句にして欲しくない。ニューマネタリストが真剣に思うように、少なくとも口先では誰もが健全で一貫した経済理論を望む。
今は唯一の例というわけではないが、いわゆる物価水準の財政理論を考えよう。
物価水準の財政理論は、均衡で起こること以外は何も意味を持たないモデルなのに、均衡から外れることに依存している。こういう事実にもかかわらず、ニューケインジアンは物価水準の財政理論を面白がる。これは、とてもニューマネタリストをあきれさせるものだ。

ニューマネタリストが経済理論の健全性と一貫性に関して懸念する明白な例は、ケインジアンの全体系が粘着価格に依存していることだ。粘着価格がカルボの価格設定(Calvo 1983)やマンキューのメニューコスト(Mankiw 1985)に基づく場合でも、我々は粘着価格をミクロ的基礎とは思わない。
名目粘着性のメリットやデメリットに関する議論にやり過ぎということはないが、留保も言い訳もしないで粘着性を採用する経済学者が少なくない。みんなの考えを簡単に変えることはできないということだ。
しかし、Williamson and Wright (2010) で我々は、この論点に関する二つのニューマネタリスト・モデルを思考材料として提供する。

一つは、Woodford (2003) や Clarida, Gali, and Gertler (1999) に見られるような価格粘着性を敢えて我々のフレームワークに適用する。たとえ名目粘着性が不可欠だとしても、マネーや銀行業務や金融機関に関して真剣でないわけでないことを示すという目的がある。もう一つのモデルは、名目粘着性を単に仮定するではなく、名目粘着性が結果として生じるようにサーチ理論を使用する。
多くの価格が粘着的に見えるという幅広い観察だけでなく、Klenow and Malin (forthcoming) とその引用で述べられる詳細なミクロ的な証拠とも、このモデルは一致している。
それでも、ニューケインジアンとかなり異なる政策の処方が得られる。つまりマネーは中立である。
我々は後で問題の一部に戻る。しかし、ここでのポイントは、粘着価格だからといって、論理的に必ずしも非中立性の結果が得られたり、ケインジアン政策を支持する結果が得られたりするわけではない、ということだ。

本稿の構成は、以下の通りである。
第2節では、ニューマネタリストに関する詳細と、他のアプローチとの違いについて展開する。
第3節では、前述の原理5の精神において、Lagos and Wright(2005)に基づく非常に扱いやすいニューマネタリスト・ベンチマーク・モデルを展開する。
仮定の裏側にあるものや、マネーは中立であるが超中立でないかもしれないという特性や、フリードマン・ルールは最適であるが最善でないかもしれないという特性を説明する。
第4節で、基本的なモデルについて、先行研究にみられるような拡張をいくつか検討する。
それから、これらのモデルで、資産市場や銀行業務や金融政策に関する問題にどのように対処できるのか述べる。
第5節では、我々はマネーと株式のモデルを構築して、資産価格設定、資産取引と流動性プレミアへの意味合いを、金融政策からの影響を含めて検討する。
第6節は、このモデルが銀行業務を含むように拡張する。これにより、金融仲介が厚生を改善する様子を示し、また、金利に対する金融政策の影響に関して新しい結果を引き出す。
ニューマネタリズムがオールドマネタリズムと異なる点を一つ例示する。100パーセントの預金準備を求めるフリードマンの提案は、このモデルでは金融仲介からの厚生増加を排除するので、間違った考えだ。これは前述の原理3を例証する。
第7節で結びである。

そして、本稿や Williamson and Wright (2010) で示される例がニューマネタリスト・アプローチの有用性を示すると思う。
読者に評価してもらうため、すべての例で使われるモデルは一貫した経済原理に基づいている。
これが、交換過程における通貨の役割を定式化するのに用いられる最も単純なセットアップであり、銀行業務や信用仲介や支払システムや資産市場を取り入れた拡張であることは事実だ。
これが理論の点で面白いだけでなく、現在の経済状況を理解して、将来の政策を形成するために学ばれる教訓でもある。
最近の危機には、根本的に、銀行業務やモーゲージその他の信用取引や資産市場の情報問題に関連した問題がある。そうである限り、交換過程を真面目に捉える理論なしに問題に立ち向かうことはできない。
交換過程を研究すること、それこそがニューマネタリストだからだ。
ニューケインジアンは少々目覚ましい成功をおさめたが、おそらく、特に政策担当者を説得する際に、すべての経済問題が名目硬直性に起因するとは思っていない。
そして、 Krugman (2009) のような復古派の見方のように、すべての興味深い質問に対する答えがオールド・ケインジアンの交叉〔45度線図やIS-LM分析〕にかかっているとも思わない。
このアプローチが研究者や政策担当者に代替案を与えると思う。引き続き我々の立場を詳しく述べたいと思う。

〔第二章以下省略〕

〔以下の参考文献はイントロで言及しているものだけコピペ〕

  • Calvo, Guillermo. “Staggered Prices in a Utility-Maximizing Framework.” Journal of Monetary Economics, September 1983, 12(3), pp. 383-98.
  • Clarida, Richard; Gali, Jordi and Gertler, Mark. “The Science of Monetary Policy: A New Keynesian Perspective.” Journal of Economic Literature, December 1999, 37(4), pp. 1661-707.
  • Diamond, Douglas. “Financial Intermediation and Delegated Monitoring.” Review of Economic Studies, July 1984, 51(166), pp. 393-414
  • Diamond, Douglas and Dybvig, Philip. “Bank Runs, Deposit Insurance, and Liquidity.” Journal of Political Economy, June 1983, 91(3), pp. 401-19.
  • Diamond, Peter. “Money in Search Equilibrium.” Econometrica, January 1984, 52(1), pp. 1-20.
  • Duffie, Darrell; Gârleanu, Nicolae and Pederson, Lasse H. “Over-the-Counter Markets.” Econometrica, November 2005, 73(6), pp. 1815-47
  • Freeman, Scott J. “The Payments System, Liquidity, and Rediscounting.” American Economic Review, December 1996, 86(5), pp. 1126-38.
  • Goodfriend, Marvin. “How the World Achieved Consensus on Monetary Policy.” Journal of Economic Perspectives, Fall 2007, 21(4), pp. 47-68.
  • Jones, Robert A. “The Origin and Development of Media of Exchange.” Journal of Political Economy, August
    1976, 84(4), pp. 757-75.
  • Kareken, John H. and Wallace, Neil. Models of Monetary Economies. Minneapolis: Federal Reserve Bank of Minneapolis, 1980.
  • Kiyotaki, Nobuhiro and Wright, Randall. “On Money as a Medium of Exchange.” Journal of Political Economy, August 1989, 97(4), pp. 927-54.
  • Klenow, Peter and Malin, Benjamin A. “Microeconomic Evidence on Price-Setting,” in Handbook of Monetary Economics. Volume 3A. (forthcoming).
  • Krugman, Paul. “How Did Economists Get It So Wrong?” New York Times Magazine, September 2, 2009
  • Lagos, Ricardo and Rocheteau, Guillaume. “Liquidity in Asset Markets with Search Frictions.” Econometrica, March 2009, 77(2), pp. 403-26.
  • Lagos, Ricardo and Wright, Randall. “A Unified Framework for Monetary Theory and Policy Analysis.” Journal of Political Economy, June 2005, 113(3), pp. 463-84.
    Leijonhufvud, Axel. On Keynesian Economics and the Economics of Keynes: A Study in Monetary Theory. London: Oxford University Press, 1968.
  • Lucas, Robert E. “Expectations and the Neutrality of Money.” Journal of Economic Theory, April 1972, 4(2), pp. 103-24.Mankiw, N. Gregory. “Small Menu Costs and Large Business Cycles: A Macroeconomic Model.” Quarterly Journal of Economics, May 1985, 100(2), pp. 529-38.
  • Samuelson, Paul A. “An Exact Consumption-Loan Model With or Without the Social Contrivance of Money.” Journal of Political Economy, 1958, 66(6), pp. 467-82.
  • Wallace, Neil. “A Dictum for Monetary Theory.” Federal Reserve Bank of Minneapolis Quarterly Review, Winter 1998, 22(1), pp. 20-26.
  • Williamson, Stephen. “Costly Monitoring, Financial Intermediation, and Equilibrium Credit Rationing.” Journal of Monetary Economics, September 1986, 18(2), pp. 159-79.
  • Williamson, Stephen. “Financial Intermediation, Business Failures, and Real Business Cycles.” Journal of Political Economy, December 1987a, 95(6), pp. 1196-216.
  • Williamson, Stephen and Wright, Randall. “New Monetarist Economics: Models,” 2010 in Benjamin Friedman and Michael Woodford, eds., Handbook of Monetary Economics. Volume 3A.
  • Woodford, Michael. Interest and Prices: Foundations of a Theory of Monetary Policy. Princeton, NJ: Princeton University Press, 2003.

マネーは記憶です解説

Kocharlakota(1998)”Money is Memory”JETの解説論文を抄訳しました。

原典のPDFファイルはこちら↓
The Technological Role of Fiat Money

この解説論文はマネー基礎論の概説として、とっても優れていると思います。
著者のコチャラコタは今やミネアポリス連銀総裁でFOMCメンバーとして有名です。

〔このカギかっこ〕は原文にない、翻訳者による補記です。
しょうもない誤訳やタイポの類がありましたらコメント欄でご指摘いただけたらありがたく存じます。

では始まり始まり~。


ミネアポリス連邦銀行四季報 第22巻第3号、1998年夏、2-10頁

通貨の技術的役割

〔「マネーは記憶です」解説論文〕

ナラヤナ R. コチャラコタ

ミネアポリス連邦銀行 調査局 上級エコノミスト

〔2009年よりミネアポリス連邦銀行総裁〕

要約

経済における通貨の技術的役割は社会記憶として働くことにほかならない。マネーによって、人々は取引に関する情報を確実に記録し、その記録を他人に利用させることができる。こうした記録の役割は、通貨に関する三つの標準的パラダイムである世代重複モデル、ターンパイク・モデル、サーチ・モデルで示される。これらのモデルからマネーを取り除き、その代わりに取引履歴の公開記録を取り入れることによって、新しい経済を創り出すことができるならば、元のマネー的な配分もやはり均衡として達成できる。

本稿は著者の研究「マネーは記憶です」をやさしく解説した論文である。「マネーは記憶です」はジャーナル・オブ・エコノミック・セオリーに載る予定である。アカデミック・プレス社の許可により、本稿をミネアポリス連銀四季報に掲載する。

〔はじめに〕

想像して。〔ビートルズの〕ジョンとポールが会う。ジョンはリンゴを持ってるけど、バナナが欲しい。 ポールはリンゴが欲しいけど、バナナを持ってない。通貨経済では、ポールはジョンにマネーを払ってリンゴを買えばいい。そしてジョンは受け取ったマネーでバナナを買う。バナナを買う相手をジョージということにしよう。ジョンがポールにリンゴを売らなければ、ジョンはマネーを受け取れないので、ジョージからバナナを買えない。

このシナリオから分かることは、経済にマネーを導入すると財の配分パターンが増えるということだ。つまり、マネーの導入は鉄道の開発と同じように技術的なイノベーションなのだ。

しかし、鉄道と違ってマネー自体は役に立たない。では、実際にマネーはどんな仕組みで役に立つのか? 本当に役立つ財を再配分するという視点でみると、さっきのシナリオは、ジョンがポールにリンゴを贈り物をする場面として解釈できる。ポールにジョンがリンゴを贈るなら、ジョンにジョージはバナナを贈る。ジョンがリンゴを贈らなければ、ジョンにジョージはバナナを贈らない。ジョンがポールから受けとってジョージに渡すマネーは、ジョンが社会的義務を果たしてポールにリンゴを贈ったことをジョージに伝える手段にすぎない。

このように、マネー経済は、贈り物が連鎖する一大ネットワークにほかならない。もし人々が贈り物の全履歴を知っているなら、マネーによって達成される資源配分はマネーが無くても達成できる。ジョージは、ジョンの持つマネーの金額に応じて対応を変えるのと同じように、ジョンの贈与履歴に応じて対応を変えるだろう。

この分析から得られる結論を簡単にまとめると、もしマネーの働きを取引履歴の完全記録に置き替えられるなら、マネーの技術的な役割は取引履歴の記録の提供にほかならない、ということだ。言い換えると、マネーは記録保存の仕方の一つであり、社会の記憶である。

このことをフォーマルに論じるため、本文では、標準的な三つの通貨モデルとして、(1)世代重複モデル、(2)ターンパイク・モデル、(3)サーチ・モデルを考察する。これらの各モデルについて、そこからマネーを取り除き、全取引の履歴記録に置き換えることによって、新しい経済モデルを創り出す。取引履歴は誰もが知っていると仮定する。 人々は契約を強制する力を持たないと仮定する。各モデルについて、マネーによる配分が、完全な社会記憶によっても実現することを示す。マネーの技術的役割は、取引履歴の社会記憶の一部を提供することでしかない。

経済における通貨の役割を、(1)価値保蔵、(2)交換媒体、(3)計算単位、の三機能とする標準的解釈は馬鹿げている。技術的に見ると、この三つ役割はどれも本当にマネーを必要としないことが分かる。(1)社会が富を蓄える方法はマネーだけでない。(2)マネーは人が他人に財を引き渡す際のコストを節約しない。(3)マネーが他の財より上手く価値を測れるとは限らない。マネーの存在についての伝統的な解釈は、マネーの機能を記述するものであって、解釈になっていない。 これがマネーの存在を本当に解釈すれば、マネーは記録装置である、ということだ。

マネーの役割が記録であると気がついたのは私が最初でない。この手の議論は、ロバート・タウンゼンド(Townsend 1987, 1989, 1990)の業績に大きく負っている。タウンゼンドは、金銭が取引履歴の記憶補助として最適な調整で生み出される状況を研究した1。他にもオストロイ(Ostroy 1973)、ルーカス(Lucas 1980)、アイヤガリ&ウォレス(Aiyagari and Wallace 1991)なども、通貨が過去の取引の結果を知るために役立つ点に注目した。私は、先行研究とは対照的に、マネーの記録機能の一般性特異性を強調する。

ミルトン・フリードマンの有名な言葉〔インフレはいつでもどこでもマネー的な現象である〕をもじって私の言いたいことを表せば、「マネーはいつでもどこでも記憶的な現象である」。

まずは一般論

一般的な議論は、次の通りである。マネーが流通する経済を考えよう。ここからマネーを取り除き、全取引の履歴に置き換えよう。その履歴は誰もが知っているものとしよう。マネー経済において取引相手になるはずだった人に、贈り物をするものとしよう。するとマネー経済の均衡配分は、贈与経済の均衡配分になる。贈与経済は贈与ゲームといってもいい。

この議論の裏にあるロジックは、マネー経済を再現する贈与ゲームでは過去の取引記録にもとづいて戦略を練ることができる、というロジックである。マネー経済において、消費を譲る人は、マネーを受け取るので、そのマネーで翌期の消費を購入できる。贈与ゲームでは、各人の想像上のバランスシートが記憶される。他人に消費を譲る人は、バランスシートの残高が増える。その残高は、将来贈り物を受け取る力になる。他人から消費の贈り物を受け取る人は、残高が減り、将来贈り物を受け取る力が減る。マネー経済におけるマネーは、このバランスシートを維持する物理手段にほかならない。

注意すべきは、贈与ゲームがマネー経済と異なる点が二つしかないことだ。一つは、贈与ゲームにおいてはマネーが存在しないこと、もう一つは、贈与ゲームにおいて、誰でも過去の取引を何でも知っていることである。違いはこの二点だけだ。したがって、マネー経済に存在しない強制や拘束の手段は、贈与ゲームでも存在しない2。技術的には、マネーは社会記憶の形式なのである。

そして三つの標準モデル

以上のような一般論を、三つの標準モデルに適用しよう。

  • 世代重複モデル、
  • ターンパイク・モデル、
  • サーチ・モデル3

世代重複とターンパイクのモデル型ではマネーは完璧な記憶装置であるが、サーチ・モデルではマネーの役割に大きな限界があることを示す。

■世代重複モデル

世代重複モデルの一種から始めよう。世代重複モデルはもともとはポール・サミュエルソン(Samuelson 1958)がつくったものだ。この種のモデルで、全取引の完全記憶が備われば、マネー均衡が贈与均衡として達成されることを示そう。

この経済において、各世代が J 人いるとしよう。人々は二期間生きる。第一期は若年、第二期は老年だ。各期に新しい世代が生まれ、その世代は翌期まで生きる。各世代の各人は、若年時に消費財を一単位生み出すが、老年期には何も生み出さない。消費財は完全に分割できるが、貯蔵できない。現在の消費 c_y と将来の消費 c_o に関する若者の選好は次の効用関数で表される。

u(c_y,c_o)

ここで u は強い増加関数である。老人はできるだけ多く消費したいと望んでいる。

□マネーがある場合

各老人は、完全に分割できて貯蔵もできて隠せるけれど、何も効用を生まない財を一単位持つと想定しよう。この財をマネーと呼ぶ。さらに各期、人々はマネーと消費を競争市場で交換するものと想定しよう。競争均衡は、各期の若者がマネーを全て需要する場合の、財に対するマネーの価格の流列 \{ p_t \} ^\infty _{t=1} で表される。数学的にいうと、競争均衡では全ての t について、

1 \in {\bf argmax} _{m \geq 0} u(1-p_{t}m, p_{t+1}m)

が成り立つ。ここで m は各人のマネー保有である。この均衡では、 t 期において若者は 1-p_t 単位を消費し、老人は p_t 単位を消費する。

□マネーがない場合

さて、マネーと財の競争的交換の代わりに、人々が贈与ゲームをプレイすると想定しよう。 t 期において、 J 人の各若者は各老人に非負の量の消費を移転する。 t に若者 j が老人 i に贈った移転を \tau ^{ji}_t と表す。 t+1履歴を移転の履歴 \{ \{ \tau ^{ji}_s \} ^t_{s=1} \} ^J_{j,i=1} で定義する。移転の全記録が共有知識であることを意味する。

若者 jt+1 期の戦略は、履歴の可能集合から移転ベクトルの可能集合への写像である。贈与均衡は、過去のプレイの履歴を踏まえ、他の戦略が決めた行動を所与とみなして決めた行動が最適反応であるような戦略を集めたものである4

注意すべきは、贈与均衡において、人々は時間を超えて特定の移転スキームを約束する手段を持たないことだ。ゆえに、贈与ゲームがマネー経済と決定的に違う点は、贈与ゲームでは人々が過去の取引を全て知っている点だ。
次の命題は、この種のモデルでマネー均衡が贈与ゲームの結果の特殊例に過ぎないことを示す。

命題1. 世代重複モデルにおいて、あらゆる静態的なマネー均衡は、贈与ゲームの移転の均衡経路である。

証明。マネー均衡 \{ p_t \} ^\infty _{t=1} を考える。一般性を失わずにマネー経済の数字を使う。若者 j は老人 j に移転 p_t を贈る。主張は移転の流列が贈与均衡で実現できるということを主張したい。

0 期の老人全員にラベル善を付ける。贈与均衡において、ラベル善を付けられた人は、暗黙の社会契約が指示する通りに必ず贈り物をしてきた。ラベル悪を付けられた人は社会契約を破ったことがある。 t 期に若者 j が採る戦略を次のように考えよう。

  • そのとき老人 j にラベル悪が付いている場合、若者は老人に何も移転しない。
  • そのとき老人 j にラベル善が付いている場合、 p_tを移転する。そうしなかった若者は翌期にラベル悪を付けられる。

こうしたラベル付けは、プレイの履歴の機能か、初期のラベル付けしかないから、正統な戦略である。

こうした戦略を集めたものが贈与戦略であると私は思う。ラベル悪を付けられた老人 j を考えよう。若者はこの老人に移転を行う動機がないから贈らない。ラベル善を付けられた老人に移転 p_t を行わない若者は翌期に移転を受け取れない。しかし、

u(1,0)<u(1-p_t,p_t+1)

である。そのわけは、マネー均衡において、人は翌期の p_{t+1}単位の消費と引き換えに今期の p_t 単位の消費を失うことを選んだからだ。ゆえに、この状況で若者は老人に移転を行う。

Q.E.D.

 世代重複モデルでは、マネーを経済から取り除いて履歴記録に置き換えても均衡配分は失われない。したがって、この種のモデルでは、マネーは記憶装置の一種にほかならない。しかし、価格水準一定のマネー均衡配分は贈与均衡配分の中でも効率的であるから、マネーは良い記憶装置である。社会にとってマネーより良い記録装置は他にない5

■ターンパイク・モデル

世代重複経済の欠点は、意思決定の期間が生涯の半分であり、実際に人々がマネー保有について決定する周期と全く異なるように思えることである。ここでは、その弱点を弱さで悩まないですむタウンゼンド(Townsend 1980)によるモデルを考えよう。そのモデルにおける命題が、上記の命題と似ていることを証明する。

□マネーがある場合

実数直線上の整数の各点に交易所が無数に所在する世界を想定しよう。高速道路やターンパイクに沿いにあるような状況である。
各期に各交易所に二種類の人がいる。 t 期に、 奇数番の人は、t が奇数のとき一単位の消費財を持ち、偶数のとき消費財を持たない。 偶数番の人は、t が奇数のとき消費財を持たず、偶数のとき一単位の消費財を持つ。消費財は腐りやすい。
t 期に各タイプの人は現在と将来の消費について、割引因子 0<\beta0 が存在する場合に限って存在する。

\delta^* ={\bf argmax}_\delta u(1-\delta)+\beta u(\delta)

この均衡のタイプにおいては、豊かな人は貧しい人に、マネーと引き換えに \delta 単位の消費を譲り渡す。

□マネーがない場合

さて、ターンパイク経済で、マネーがないと想定しよう。その代わりに、世代重複モデルでの議論と同じような贈与ゲームをプレイする。各期各人は同じ交易所にいる他人に任意の量の消費を自由に移転する。人々は移転を同時に決める。このゲームでは世代重複モデルと同様に、履歴は、過去に行われた移転の完全な記録であり、贈与均衡は、全ての人が全履歴を踏まえて最適行動を採った場合の戦略の集まりである。命題1と同様に次の命題を証明する。

命題2. ターンパイク・モデルでは、あらゆる静態マネー均衡の移転は、贈与ゲームでの移転の均衡経路である。

証明\delta^* を静態マネー均衡で行われる常時一定の移転としよう。モデルのよると、 J 人のグループはいつも一緒にいる。グループ内の各人に 1 から J までの番号を付ける。各人はラベル善かラベル悪を付けられる。最初は全員にラベル善を付ける。特定のグループ内で多く持つ豊かな人 j は次の戦略を採ると考えよう。

  • 豊かな人 j か 貧しい人 j のどちらかにラベル悪が付いている場合、この豊かな人は何もしない。
  • 豊かな人にラベル善が付いており、 t が偶数である場合、この人は何もしない。
  • 豊かな人にラベル善が付いており、t が奇数であり、貧しい人にもラベル善が付いてる場合、豊かな人は貧しい人に \delta^* を与える。

ここでも命題1の証明と同じように、ラベルはプレイの履歴か初めに付けられたラベルでしかないので、この戦略は正統戦略である。
この戦略の集まりが贈与均衡である。戦略通りに移転すべきときに移転しなければ、この人にはラベル悪が付けられる。ラベル悪の人は贈り物を何も受け取れないから、自給自足に追い込まれることになる。こうなると、

u(1-\delta^*)+\beta u(\delta^*) \leq u(1)+\beta u(0)

であるから、マネー均衡で保証される移転パターンの場合より悪化する。

Q.E.D.

 くりかえせば、ターンパイク経済からマネーを取り除いて完全記憶に置き換えてもマネー均衡は消え去らない。マネーは記憶の特殊型にほかならない。

世代重複の設定では、マネー均衡は贈与均衡経路のうちで効率的な配分をもたらした。ターンパイク・モデルでは、これは一般に正しくない。 \delta^*=\frac{1}{2} である場合か、あるいは豊かな人が自給自足レベルの効用に追い込まれるか場合に限って、常時一定の移転 \delta^* は効率的である。このことは簡単に示せる。

u(1-\delta^*)+\beta\frac{u(\delta ^*)+u(1-\delta^*)}{1-\beta}=u(1)+\beta\frac{u(0)+u(1)}{1-\beta }

(直感的には \delta^* \neq \frac{1}{2} だから、できるかぎり消費スムージングしても自給自足レベルに追い込まれることになる。)一般に、静態マネー均衡ではどちらの条件も満たされない。

以上の分析は、ターンパイク・モデルでマネにおいてマネーは不完全な記憶装置であることを示唆する。しかし、レオニード・フルヴィッツ(Hurwicz 1980)によると、特定の取引がうまくいかなかったとしても、それがマネーのせいとは限らない。このモデルにおいて、効率的な資源配分に失敗したのは、マネーの弱点のせいではなく、むしろ人々が財をマネーと交換する手続きの欠陥のせいである。

□別の交換手順

このことを見るために、交換手順を次のように変える。各交易所で各集団内の人々は、 1 から J までの番号を付けられる。同じ番号が付いた二人がペアになる。各ペアの二人は、同時かつ別々に、交換の提案を書き留める。もし両提案が一致すれば交換を行う。どちらも相手の取引履歴を知らないが、マネーをいくら持っているか知っている。

このような交換手順であれば、あらゆる贈与均衡経路は、記憶のないマネー均衡で実現できる。例えば (\frac{1}{2},\frac{1}{2}) の分割が贈与均衡経路であると想定しよう。この分割を実現するマネー経済の戦略は簡単に分かる。貧しい人が一単位以上のマネーを持つ場合、豊かな人はマネー全額と引き換えに消費一単位の半分を譲り渡すと提案する。貧しい人は常に同じ提案を書き留める。もし貧しい人が一単位未満のマネーしか持っていなければ、豊かな人は移転を行うのを拒む6

豊かな人が将来の消費スムージングの利益を得るために今日消費の半単位を譲り渡す気がある限り、これらの戦略は均衡を生み出す。もう一つの方法については、全期間で自給自足より効用が高い限り、これらの戦略は (\frac{1}{2},\frac{1}{2}) の分割を実現する。戦略が贈与平衡も作る場合に限り、これは真実である。
この交換手順の鍵は、消費に対するマネーの評価が非常に非線形であるということだ。マネー一単位は消費の半単位の価値があるが、一単位未満の金額は価値がゼロだ。
各交易所の交換が線形価格ルールを強いるという仮定は、最適より劣る配分につながる。(似た議論はTownsend 1989を見よ)。
まとめると、ターンパイク・モデルにおいて、すべての静態マネー均衡は、贈与均衡でもある。

静態マネー均衡は、他の贈与均衡と比べて非効率である。しかし、それは競争的な交換の仮定が理由だ。マネーを使うことが記憶の喪失を伴わない交換手順が存在する7

■サーチ・モデル

世代重複モデルもターンパイク・モデルも、人々が通貨を持つ伝統的な理由とされる「欲望の二重の一致」を捉えていない。例えば、肉屋は牛肉を持っていてパンを買いたい。マネーがないと、肉屋は、ベジタリアンでないパン屋、しかもたまたま牛肉を欲しがっているパン屋を探さないといけない。牛肉は腐りやすいから、こんなパン屋を探すのにかかる時間は大問題だ。肉屋は、マネーと引き換えに牛肉を欲しがる誰かに牛肉を売って、そのマネーを使ってどこかのパン屋からパンを買えばいい。

清滝信宏とランダル・ライト(Kiyotaki and Wright 1991)は、マネーのこの役割を捉えるモデルを提示した。このサーチ・モデルは、他の二つのモデルと違って、社会記憶として限界のある形式でしかないことを示そう。このことは、経済にとって他の記録装置が必要になる可能性を示している。もちろん現実経済は既に持っているものだ。

清滝&ライト・モデルの仕組みは次の通りだ。経済には三タイプの人がいる。三タイプとも選好と技術が異なる。三というのは欲望の二重の一致を生み出す最小の数だ。例えば、パンを食べたい肉屋、芋を食べたいパン屋、肉を食べたい芋農家といった具合だ。各種の人は無数に存在する。長持ちせず分割できない財が三タイプある。各期、タイプ i の人はタイプ i の財を一単位あらかじめ持っている。しかし、タイプ i の人はタイプ i+1 の財からのみ一単位の効用をその期に得る8。他の財からは何も効用を得ない。人々は永久に生き、割引因子 beta で効用を割り引く。

各期、人々はランダムに二人組になる。組む相手が誰になるかは、タイプに関わらず確率は均等である。組んだ二人が合意すれば、財を交換してもいいし移転してもいい。しかし、交換や移転を行うと \epsilon <1 単位の効用を失う。いわば輸送コストがかかる。

この状況では、すべての組み合わせで、タイプ i+1 の人が タイプ i の相手に与えるのが、事前的に効率である。財を与えると \epsilon 単位の効用を失うが、消費財から一単位の効用を得るので、差し引きプラスである。問題は、この取り決めが強制であることだ。

タイプ i+1 の人が タイプ i に資源を譲り渡す際にかかる \epsilon 単位のコストを我慢する気にさせる方法は何か?。

□マネーがある場合

清滝&ライト(Kiyotaki and Wright 1991)は、通貨がこの問題を部分的に解決することを示した。分割できないが貯蔵できて隠せる財である通貨を、各タイプの半数の人が持っていると想定しよう。通貨を消費しても効用は得られないと仮定しよう。また同時に一単位より多く通貨を持てないと仮定しよう。静態マネー均衡では、通貨を持つタイプ i の人は、通貨を持たないタイプ i+1 の人に対して、財と引き換えに通貨を渡す。タイプ i+1 の人が本来不用のマネーを受け取るのは、将来、通貨を使って、欲しい消費財を、タイプ i+2 の人の半数から買い求めることができるからだ。

明らかに、人々が十分忍耐強い場合に限って静態マネー均衡が存在する。なぜなら、人々が、現在の輸送コスト \epsilon を自ら支払うのは、それと引き換えに将来欲しい財を手に入れる可能性を得るためだ。静態マネー均衡で何が必要か見てみよう。
マネーを持つ人の生涯効用を V_1 、マネーを持たない人の生涯効用を V_0 と定義しよう。すると、静態マネー均衡では、 V_1 V_0 の値は次の式の通りだ。

V_1 = \frac{1+\beta V_0}{6}+\frac{5\beta V_1}{6}

V_0 = \frac{\epsilon +\beta V_1}{6}+\frac{5\beta V_0}{6}

V_1 の式をみると、マネーを持つ人は、 \frac{5}{6}の確率で、マネーを持ちつづけて効用を得られず、残り \frac{1}{6} の確率で、こちらの欲しい財を持ってマネーを持たない相手と出会って取引をする、ということだ。次の V_0 の式をみると、マネーを持たない人は、 \frac{5}{6}の確率で取引を望む相手と出会えず、そして \frac{1}{6}の確率で、財のニーズが合いマネーを持つ相手と出会う、ということだ。

V_1 V_0 の値は次の不等式を満たす。

-\epsilon +\beta V_1 \geq \beta V_0

1 +\beta V_0 \geq \beta V_1

第一の不等式は、マネーを持たない人がマネーと引き換えに財を渡すのが最善であることとを意味する。第二の不等式は、マネーを持つ人が財と引き換えにマネーを渡すのが最善であることを意味する。このような V_1 V_0 は次の場合に限り存在する。

\beta \geq \frac{6\epsilon}{1+5\epsilon}

したがって、人々が十分に忍耐強い( \beta が高い)場合か、あるいは輸送コストが十分に低い( \epsilon が低い)場合に、取引相手に財を引き渡す気にさせる。これによって問題は部分的に解決する。

□マネーがない場合

さて、他のモデルと同様に、経済の取引の全履歴を人々が知らない場合にのみ通貨は必要になる。このことを見るために、次のような贈与ゲームを考えよう。

組み合わせになった二人が、相手に譲り渡すか否かについて、同時かつ別々にを選ぶ。このゲームの履歴は、過去の対応、過去の全ての相手の過去の対応、等々。これまでと同様、戦略は、履歴から選択への単純な写像である。贈与均衡では、他人の戦略を所与とした最適な対応を、戦略が履歴を踏まえて決める。

このように均衡を定義して、次の命題を証明する。

命題3. サーチ・モデルにおいて、あらゆる静態マネー均衡は、贈与均衡での移転の均衡経路である。

証明。静態マネー均衡は非対称的贈与均衡である。マネー均衡でマネーを持つ人をラベル善を付け、マネーを持たない人をラベル悪を付ける。移転ゲームの戦略は次のように描写される。

  • あらゆる期において、ラベル善を付けられたタイプ i+1 の人が、ラベル善を付けられたタイプ i の人と出会った場合、タイプ i+1 の人が、タイプ i の人に財を与える。ラベルは取り換えられる。
  • 他の出会いでは、何も移転しない。

ラベル善やラベル悪は全取引の履歴の関数であり、上記の戦略は正統戦略である。また、ラベル善を付けられた場合の効用は V_1 に等しく、ラベル悪を付けられた場合の効用は V_0 に等しい。

この戦略は贈与均衡であるか? ラベル善を付けられるのはラベル悪を付けられるより得をする。今、タイプ i の人にラベル善が付いていると考えよう。この人は i-1 の人に財を譲らないだろう。ラベル善のついたタイプ i の人は、最善のラベル善を既に得ているから、財を譲ることで効用を失っても、何ら得るものはない。一方、ラベル悪の付いたタイプ i の人を考えよう。静態マネー均衡では \beta V_0 \leq -\epsilon +\beta V_1 である。したがって、このような人は、 \epsilon を負担して財を譲るのと引き換えに、ラベル善を受け取ろうとする。

Q.E.D

 このように、ここでも前の二つの経済と同じように、マネーは過去に起きたことを記録する手段としてだけ役に立つ。人々が自分で記録をつけるならばマネーは不要である。つまり、経済にマネーを付け加えてもパレート優位な配分を達成する役に立たないという意味で、マネーは不要なのである。

世代重複やターンパイクのモデルでは、完全に分割できて貯蔵できて隠せる財が、履歴の全知識の代わりとしてに十分であることを見た。サーチ・モデルではこれは正しくない。特に、サーチ・モデルには、静態マネー均衡で達成されるより効率的な配分を実現する贈与均衡がある。

このことを見るために、この状況で最悪の贈与均衡は取引のない均衡であることに注意しよう。この場合、効用はゼロだ。これは、より良い結果を生み出すための脅しとして使える。〔ゲーム理論でいう厳格戦略ですね。〕ゆえに

-\epsilon (1-\beta )+\frac{\beta (1-\epsilon )}{3} \geq 0

である限り、将来の取引を失うことを恐れて、消費を欲する相手に消費を譲るよう思い止まる。この制約を書き換えると

\beta \geq \frac{3\epsilon }{1+2\epsilon }

である。明らかに

\frac{3\epsilon }{1+2\epsilon } \leq \frac{6\epsilon }{1+5\epsilon }

である。ゆえに、マネー均衡が存在する場合、必ず贈与均衡は対称的な効率配分を実現できる9

この設定には、記憶装置としてのマネーに関して内在的な限界がある。つまりマネー均衡が非効率であるという限界がある。効率的な贈与均衡において、タイプ i+1 の人に移転を行わなかったタイプ i の人は、厳しく罰せられる。タイプ i の人に移転を行わなかった人は全く罰せられない。前者の移転は社会的に有益(事前的)だが、後者はそうでないから、両者の区別は重要だ。

履歴の記録のないマネー経済では、これを区別できない。特定の人の取引相手の記録が残っていないから、将来の人々は、たまたま出会いに恵まれずに移転を行えなかった人を、社会の取り決めを裏切って移転を行わなかった人と同じように扱ってしまう。マネー均衡では人々は、移転を行えば先行き利益の期待できるからこそ、移転を行う気になるにすぎない。したがって、均衡において、タイプ i の人は、タイプ i の人に出会うよりタイプ i+1 の人に出会うほうが得をする。マネー均衡の経路に沿った効用の変動は、効率的な贈与均衡に比べて劣るのである。

サーチ・モデルおいてマネーは記憶装置として不完全であるが、だからといって、マネーが記憶装置であるという私の一般論がおかしいわけではない。むしろ、マネーより優れた記憶装置が他にあるという現実的な可能性について、サーチ・モデルを用いて考えることができる。サーチ・モデルにおいて、電子的なデビットカードや取引記録のような記録技術は、マネーよりも厚生を改善し得る。世代重複やターンパイクのモデルではこうしたことはない。

信用の役割?

そういうわけで、マネーは、過去の贈り物と引き換えに将来の利益を約束した経緯を記録する手段でしかない。これと同じことは他の紙の資産についてもいえるのか?
たとえば、債券は、本来不用の紙切れだが、過去に消費を減らした保有者に将来の消費を約束するものだ。上記の命題は、債券に当てはまるか? 答えはノーだ。資産市場の均衡は、通常、贈与均衡として達成できるとは限らない。

このことを簡単な例で示そう。有限期間の設定では、贈与均衡は一つしかない。自給自足だ。同様にマネー均衡も自給自足しかない。しかし、有限期間の設定であっても、資産市場配分は自給自足以外にもあり得る。無限期間については、簡単には示せないが、有限期間と同じことがいえる。贈与均衡ではない資産市場配分が存在する。

事後の個人合理性の制約を打ち破ることを人に強制できるものとして債券は設定されているので、債券は別の配分を達成できる。二期間の設定では、合理的な借り手には、第二期に借入を踏み倒す誘因がある。借り手に契約条項を守らせるのには、何らかの外部の力による脅しが必要である。このような外部の力による脅しは贈与ゲームに存在しない。

まとめると、マネーも債券も、過去の取引の経緯を記録することに役立つが、本来不用の紙である。マネーと債券の区別は場合による。マネーは、強制も約束もない場合において、記憶の一種として用いられる。(それで、マネーが存在するとき、全ての資源の移転は贈り物であると言うのが正統である。)
債券は、強制や約束のある場合において、記憶の一種として用いられる。(資源は外部の力の脅しによって移転されることがある。)10

■まとめ

経済においてマネーの技術的役割は、人々が過去の取引のある一面を確実に記録して、その記録を他人に見せることにある。短くいえば、マネーは社会記憶の役割を演じる。この役割を果たすマネーの能力は状況の細目に依存する。世代重複やターンパイクのモデルではマネーは完璧な記憶装置であるが、サーチ・モデルでは限定的にしか使用されない。マネーと債券の役割の主な違いは場合による。マネーも債券も記録装置として使われるが、債券は契約条項を守らせる約束を可能にするのに対して、マネーはそうではない。

タウンゼンド(特にTownsend 1980)は、通貨と信用の使用割合を決定する際に、空間調整の重要性を強調する。私の推理によると、特定の空間調整の重要な特質は、地理そのものでなく、むしろ地理が暗示する記憶と約束の技術的制約である。このように、ターンパイク・モデルにおいて、交易所で出会う偶数番の人と奇数番の人が互いの経歴を知らないのは当然だろう。このような記憶の欠如は、マネーの必要を生み出す。それにもかかわらず、記憶の欠如は、地理的特徴に固有でなくて、むしろ何らかの技術的な不足を反映する。

同様に、ターンパイク・モデルで、奇数番の人 j が「左隣の交易所の偶数番のの人 j は、持参人に消費の一単位を借りている」と書いてある紙と引き換えに今日消費を譲るのは不自然だろう。そのような契約の欠如はマネーの価値を生む。しかし、この場合も、地理に固有のものが、そのような契約を排除することはない。むしろ、そのような契約の欠如は、ある種の強制技術の欠如を反映する。

サーチ・モデルの分析で明らかにしたことは、マネーは一般に記憶の限定された形式でしかない。これは、今後の研究に二つの難問を提起する。一つは、マネーの記録機能は制限されているが、これよりも正確な手段を見つけることだ。しかし、その手段が経済環境の広い範囲に適用できないかぎり、そのような手段に興味がない。
もう一つの難問は、もともとフルヴィッツ(Hurwicz 1980)が提起したものだ。制度の設計で解決する類の問題であっても、マネーを考慮すべきかもしれないとフルヴィッツは論じた。私の分析によって、フルヴィッツの論点を少し絞り込むことができる。社会は、多種多様な記録技術を利用できる。なぜ、マネーは、記憶として限界があるのにかかわらず、これほど広く普及した制度なのか? 私とウォレスの最近の仕事(Kocherlakota and Wallace 1997)は、その問いに答える第一歩である。

最後に、こうしたマネーに関する見方が、現実世界に持つ意味についての一言。マネー経済学は、伝統的に、マネーの数量や成長率がどのように財の価格や数量に影響を及ぼすか、という問題が中心だった。ここでの私の議論は、この中心問題を避けている。マネーは記憶装置である。ゆえに、できる限りの最も効率的な方法で記録が実行されるように、金融政策は設計されるべきである。どうすればいいか? 今は分からない。しかし、最適金融政策について十分で堅確に理解できるように研究を進めるべきである。

〔原注〕

  • 本稿は著者の研究「マネーは記憶です」をやさしく解説した論文である。「マネーは記憶です」はジャーナル・オブ・エコノミック・セオリーに載る予定である。アカデミック・プレス社の許可により、本稿をミネアポリス連銀四季報に掲載する。〔謝辞は省略〕

参考文献

〔ここはコピペです〕

  • Aiyagari, S. Rao, andWallace, Neil. 1991. Existence of steady states with positive consumption in the Kiyotaki-Wright model. Review of Economic Studies 58 (October): 901–16.
  • Fudenberg, Drew, and Tirole, Jean. 1991. Game theory. Cambridge, Mass.: MIT Press.
  • Huggett, Mark, and Krasa, Stefan. 1996. Money and storage in a differential information economy. Economic Theory 8 (August): 191–210.
  • Hurwicz, Leonid. 1980. Discussion. In Models of monetary economies, ed. John H. Kareken and Neil Wallace, pp. 147–55. Minneapolis, Minn.: Federal Reserve Bank of Minneapolis.
  • Kiyotaki, Nobuhiro, and Wright, Randall. 1991. A contribution to the pure theory of money. Journal of Economic Theory 53 (April): 215 –35.
  • Kocherlakota, Narayana R. Forthcoming. Money is memory. Journal of Economic Theory.
  • Kocherlakota, Narayana, and Wallace, Neil. 1997. Optimal allocations with incomplete record-keeping and no commitment. Research Department Working Paper 578. Federal Reserve Bank of Minneapolis. Also forthcoming, Journal of Economic Theory.
  • Lucas, Robert E., Jr. 1980. Equilibrium in a pure currency economy. In Models of monetary economies, ed. John H. Kareken and Neil Wallace, pp. 131–45. Minneapolis, Minn.: Federal Reserve Bank of Minneapolis.
  • Ostroy, Joseph M. 1973. The informational efficiency of monetary exchange. American Economic Review 63 (September): 597– 610.
  • Samuelson, Paul A. 1958. An exact consumption-loan model of interest with or without the social contrivance of money. Journal of Political Economy 66 (December): 467– 82.
  • Sargent, Thomas J. 1987. Dynamic macroeconomic theory. Cambridge, Mass.: Harvard University Press.
  • Townsend, Robert M. 1980. Models of money with spatially separated agents. In Models of monetary economies, ed. John H. Kareken and Neil Wallace, pp. 265–303. Minneapolis, Minn.: Federal Reserve Bank of Minneapolis.
  • ___________. 1987. Economic organization with limited communication. American Economic Review 77 (December): 954 –71.
  • ___________. 1989. Currency and credit in a private information economy. Journal of Political Economy 97 (December): 1323– 44.
  • ___________. 1990. Financial structure and economic organization: Key elements and patterns in theory and history. Cambridge, Mass.: Blackwell

  1. 人はマネーを使って取引と生産の履歴の一部を他人に伝達するので、タウンゼンド(Townsend 1987)はマネーをコミュニケーションの技術と呼ぶ。私は、用語をもっと特定して、社会記憶と呼ぶのがよいと思うが、タウンゼンドも私も同じ機能について語っている。最も正確な用語は、おそらく公開データベースだろう。マネーは、基本的に、取引履歴の特定部分の記録を人々が利用できるようにする情報貯蔵装置である。 
  2. 社会の資源配分の外部強制はマネー経済に存在しないの実行をしないと仮定する。(細かいことをいうと、人々は一貫した個人合理性の制約を満たさなければならない。)この仮定をおく理由は二つある。私が研究する環境では、マネーや記憶によって社会の資源配分にパレート改善の余地がなくなることを、この外部強制の存在は意味する〔←意味が分からん〕。(詳しくは、マーク・ヒューゲットとステファン・クラサの研究 (Huggett and Krasa 1996)と、本稿の元となっている「マネーは記憶です」を参照せよ。)仮定するもう一つの理由は、本質的に役に立たない金券が、外部強制の環境において記録の目的で使われるとき、それらの金券がマネーよりもむしろ債券に似ていることだ。私は、その状況について最後の節で論じる。 
  3. 世代重複とターンパイクのモデルについて、より完全な説明は、トーマス・サージェントの1987年の教科書を参照せよ。 
  4. ここで述べていることを、ドルー・フーデンバーグとジーン・チロル(Fudenberg and Tirole 1991 pp.187ff)は、フォーマルに完全公的均衡と名付けている。私の論文「マネーは記憶です」も参照せよ。 
  5. マネーのある世代重複経済における配分調整メカニズムを次のように想定せよ。老人 j と若者 j の間のマネーと消費の取り分けについて老人 j が書き留める。若者 j も同時に同じことをする。両者が同じ配分を書き留めていた場合はマネーと消費の取り分けは実行される。そうでない場合は実行されない。社会記憶のある世代重複経済の贈与均衡が、この調整メカニズムのマネー均衡であることは簡単に示せる。ただしマネーは分割できないが隠せるものとする。 
  6. この均衡行動の記述において、マネー保有は完全に観察できるかのように取り扱う。しかし、マネー保有を隠せる場合でもこの戦略は成り立つ。 
  7. この環境にどのような摩擦を追加すれば、競争が資源配分の良い方法になるか? その摩擦を追加したときに、マネーは記憶装置として完全なのか不完全なのか? これはいい質問だ。しかし、私にとって未解決の問題だ。 
  8. サーチ・モデルに関する議論では、全てのタイプは、三で割った余りである。 
  9. 対照的で効果的な配分の効用は V_1 より大きいを示せるので、静態マネー均衡においてマネーがあってもなくても悪い状態に陥る。 
  10. この見解によると、当座預金は債券の一形式であって、マネーではない。 

ソロヴィア成長物語

マクロ経済学の教科書では、初めの辺りでソロー成長モデルを説明するのが定番になっている。マクロ経済を記述する一番シンプルなモデルであり、マクロ経済学のエッセンスがここにあるということらしい。

ソロー成長モデルは、もともとソローという偉い経済学者が発案したモデルなのだが(Solow 1956)、学者仲間のフェルプスはソローの名ををモジったソロヴィアという名の王国のお話にしている(Phelps 1961)。ソロヴィアは、成長主義をモットーとする、古代ギリシア風の架空の王国である。王様が経済成長のあり方について懸賞をかけて諮問したのに対して、百姓のオイコ・ノモスが黄金律を提案する、というが論文の筋書きである。ソロー成長モデルと呼ぶのでは味気ないので、以下ではソロヴィア王国ということで話を進めよう。

ソロヴィア経済の仕組み

ソロヴィアの経済を概観すると、次のような単純な仕組みである。

  • 労働がGDPをつくる。
  • つくられたGDPは消費されるか投資される。
  • 投資は労働の生産性を高める。

ソロヴィアの労働やGDPのデータを眺めると、ほぼ定常状態というものの近くで動いているようだ。ここで定常状態というのは、

  • 労働の成長率は一定である。
  • GDPの成長率は一定であり、労働の成長率より高い。
  • GDPに占める投資の割合は一定である。

ということであり、言い換えれば持続的な経済成長のことである。ソロヴィアの経済活動は定常状態そのものではないが、定常状態の近くにある。これがソロヴィアの定型化された事実である。

なお、このように成長理論で定常状態というのは持続的な経済成長を意味しているのだから、一部の社会学者風の人がゼロ成長を指して定常型ナントカと呼んでいるのとは全然関係ないことに注意しよう。

定型化された事実をうまく説明するには、ソロヴィアの経済構造はおよそ次のようになっていると想定される。

  • 有効労働は一定の成長率で自然に増える。
  • 有効労働と資本をともに投入してGDPを産出する。
  • 生産技術は規模に関して収穫一定である。
  • 資本は自然に減耗するが、投資すれば増える。
  • GDPは常に一定割合が投資され残りが消費される。

これだけでは説き尽くされないので、数式を交えてもう少し詳しく説明しよう。

有効労働

有効労働とは労働に労働効率を加味したもので、労働を L 、労働効率を A とすると、有効労働は掛け算 AL で定義される。

ソロヴィアの有効労働は初期値が定まっていて、その後は時間当たり \bar{n} の割合で自然に増加する。 \bar{n} は与えられた定数であるから、効率労働の成長経路は自然に定まっていて人為的に変えられない。

結論を先取りすると、定常状態ではGDPも資本も成長率は \bar{n} に落ち着く。\bar{n} は自然に決まる成長率なので自然成長率と呼ばれたりする。

生産関数

ソロヴィアでは、有効労働と資本を投入してGDPを産出する。有効労働は前述の通り AL であり、さらに資本を K 、GDPを Y と表すと、この生産構造は関数 F を用いて

Y=F(K,AL)

と表される。

この生産関数は、労働効率 A と労働 L がまとまって有効労働 AL の形で入っている点が特徴である。このような生産関数を労働拡張型とか、発案者の名にちなんでハロッド中立型と呼ぶ。生産関数を労働拡張型に限定するわけは、そうでないと経済が定常状態に行き着かないからだ。定常状態を気にしなければ労働節約型でなくても構わないのだが、ソロヴィアは定常状態近傍なので、労働節約型で考えるのが妥当だろう。この点、ソローは当初気付いていなかったのだが、後になって認めている(Solow 2000)。

また、ソロヴィアは規模に関して収穫一定である。これは、資本と有効労働を同じ倍率で増やせば、それと同じ倍率でGDPも増えるいう意味である。もうすこし一般的に言うと、任意の正の定数 \lambda について、資本も有効労働も \lambda 倍になると、GDPも \lambda 倍になるということである。

\forall \lambda\geq 0,F(\lambda K,\lambda AL)=\lambda F(K,AL)

規模に関する収穫一定の意味するところは、労働や資本以外の希少な投入要素が存在しないか無視できるということだ。希少な投入要素とは例えば土地とか天然資源とかである。ソロヴィアでは土地や天然資源は余っていて希少とはみなされない。

規模に関して収穫一定のもとでは、GDPや資本を有効労働に対する比率で表示すると何かと便利である。すなわち、

k \equiv \frac{K}{AL}

y \equiv \frac{Y}{AL}

f(k) \equiv F(k,1)

と定義すれば、生産関数を次の形に集約して表すことができる。

y=f(k)

これは、GDP有効労働比率が、資本有効労働比率によって決まることを表している。

集約された生産関数 f は滑らかな増加関数で、その傾き f' は、 f(0)=0 に近いとき無限大で、 f(0)=0 からプラスに向かうにしたがって小さくなり徐々にゼロに近づいていく。これを発案者にちなんで稲田条件という。稲田条件を満たせば経済が定常状態に向かうことが知られている。

投資と資本

生産物は消費されるか投資される。消費を C 、投資を I として、

Y=C+I

である。ソロヴィア王国は鎖国中で輸出や輸入が無いか、外国と貿易しているとすればバーター貿易であり、輸出と輸入が常に一致しているということだ。

そして投資は資本を増やす。

\dot{K} = I-\delta K

変数の上のドットは単位時間あたりの増分である。つまり \dot{K} \equiv \frac{dK}{dt} である。 \delta は資本が自然に減る減耗率を表す。資本は減耗の分だけ減るが、投資の分だけ増えることを上記の式は示している。資本の初期値は決まっていて、後は上記の式に従って資本が蓄積されていくと考える。

この式の意味は、投資に調整コストの類はかからない、ということだ。すると、生産物の価格と資本の価格は常に一致し、両価格の比率であるトービンのqは常に1になる。とはいえ、定常状態に関していえば、投資に調整コストがかかってもかからなくても違いはないので、この点はあまり気にしなくていい。

貯蓄率

資本を蓄積する投資はどうやって決まるのか? ソロヴィア人は素朴なのでGDPの一定割合を貯蓄にして残りを消費する。貯蓄分がそのまま投資になる。つまり、生産のうち貯蓄に回す割合を \bar{s} と表して、

I=\bar{s}Y

である。貯蓄率 \bar{s} が一定で自然に決まっているというのが、ソロヴィアの特徴だ。

このように貯蓄率が一定で自然に決まるとするのは少々安直すぎると考える人が少なくない。この点を、もっとそれらしくしようとして、「永久に生きる代表的家計の最適化行動」とか、「世代重複のもとでの個人の最適化行動」といったようなモデルが考案されている。私も最近までこの手のモデルが格好良いと思っていたが、今は貯蓄率が自然に決まると仮定してもて十分もっともらしいと思うようになった。その理由はかなりややこしいので、また別の機会で述べたい。

定常状態

以上の仕組みのもとで、ソロヴィア経済はどう動くか? 経済の動きは、資本有効労働比率 k の動きに集約される。そのわけは二つある。第一の理由は、ここまで変数が変化の形で現れたのは \dot{k} だけであって、変数の動きを直に追えるのは k しかないことだ。第二の理由は、各時点の k が決まれば、同じ時点の残りの変数は簡単に計算できることだ。

というわけで、 k の変化について、今まで登場してきた式を適宜組み合わせて整理すると次の微分方程式が導かれる。

\dot{k} = \bar{s}f(k) - (\bar{n}+\delta)k

この微分方程式が肝である。 k の行き着く先では \dot{k}=0 なので、

\bar{s}f(k) - (\bar{n}+\delta)k=0

である。これを満たす k は二つある。一つはk=0 であるが、これは無視して、もう一つを \bar{k} と表そう。これが k の行き着く先、定常値である。すると、GDP有効労働比率も \bar{y} \equiv f(\bar{k}) に行き着くことになる。定常状態では、 \bar{y} の分母の有効労働と分子のGDPは、成長率が同じだということだ。有効労働の成長率は自然成長率だから、定常状態ではGDP成長率は自然成長率に等しくなる。貯蓄率のような他の要因はGDPの定常成長率に全然関係ない。定常成長率は自然に決まっており人為では何とも動かしようがない。これがソロヴィアの結論の一つだ。

経済学者の中には、こんな結論じゃツマらないのだっ、定常成長率をいじくり回したいのだっ、と思う輩もいる。そういう経済学者たちは、ソロヴィアから旅立って内生成長理論という別の国に移っている。私は、定常成長率をいじくり回したいと思わないし、定常成長率は自然に決まるのが当然だと思うので、ソロヴィアで満足している。ソロー様も、内生成長理論をつぶさに検討したうえで、内生成長理論なんぞくだらない、俺様の建国したソロヴィアで十分である、という意味のことを仰せになっておる(Solow 2000)。

ソロヴィアの定常状態において人為で変わり得るのは、成長率ではなくて水準である。貯蓄率が高まると定常状態におけるGDPや資本の水準が高まる。こういう効果を水準効果という。これに対して定常成長率への効果を成長効果という。貯蓄率の変化は成長効果を持たないが水準効果を持つ。これがソロヴィアの特徴だ。ソロー様が俺様のソロヴィアで満足せよと仰せになったのは、水準効果だけでも十分インパクトあるから、無理してまで成長効果を考えんでもいいだろ、ということらしい。

黄金律

貯蓄率を高めればGDPの水準が増大するということであれば、どうにかして貯蓄率をどんどん高めてGDPをどんどん増やせば皆ハッピーになると思うかもしれない。だが、しかし。GDPが増えればハッピーになるという発想は経済学にない。経済活動の目的は消費なのだから、消費を増やすのが正解である。貯蓄率を高めすぎると、かえって消費が減る。極端な話、貯蓄率が100%になれば、GDPは最大になるが、消費はゼロに落ちる。消費ゼロでは死んでしまう。

それでは定常状態において消費水準を最大化してみてはどうか。フェルプスは、定常状態を黄金時代と呼び、消費水準を最大化する定常状態を黄金律と呼んだ(Phelps 1961)。黄金時代におけるルールだから黄金律というわけだ。なお、マクロや成長理論の教科書の中には、黄金律という言葉は聖書マタイ伝の「自分がしてもらいたいことを他人にしてあげなさい」という教えに由来するのであるぞっ、と書いているものもある。まったくデタラメである。聖書の黄金律は成長論の黄金律に全然関係ない。そうでなくて、フェルプスは、ギリシア神話に出てくる黄金時代をイメージして、黄金時代におけるルールだから黄金律と呼んでいるのである。

黄金時代、すなわち定常状態では、

\bar{c} = f(\bar{k}) - (\bar{n}+\delta) \bar{k}

だから、消費最大化を求めるには、この式を \bar{k} について微分してゼロと置けばいい。すると、次式が求まる。

f'(\bar{k}) -\delta = \bar{n}

左辺は資本の純収益率だから、これが右辺の自然成長率と等しくなるところで消費が最大化される。資本収益率イコール自然成長率。これが黄金律である。 \bar{k} の黄金律水準を \bar{k}^{G} と書こう。

では黄金律を実現するのが望ましいかというと、話はそう簡単でない。フェルプス自身、初めに黄金律を提案したときは、速やかに黄金律を実現するのが望ましいと主張していた(Phelps 1961)。ところが、この主張は最適成長理論の観点から批判されため、フェルプスは考えを改め、黄金律が望ましいとは限らないと表明した(Phelps 1965)。

なぜ黄金律が望ましいとは限らないのか? 人は先のことより今を大事だと感じる。つまり将来を割り引いて考える。経済学では、そのように仮定するのが普通だ。そうなると、先行き定常状態の消費を多少犠牲にしても今のうちに消費してしまったほうが人は喜ぶだろう。黄金律 \bar{k}^{G} より少し低い水準 \bar{k}^{*} を狙うのが最適である。

\bar{k}^{*}<\bar{k}^{G}

将来を割り引く人たちにとって、黄金律は最適ではないのだ。最適な \bar{k}^{*} のほうは修正黄金律とも呼ばれる。最適の観点から黄金律を少し修正したよ、という意味だ。

では、黄金律は意味がないのかというと、そうでもない。 \bar{k} の最適水準は黄金律を下回る、つまり \bar{k}^{*}<\bar{k}^{G} だから、 \bar{k} が黄金律 \bar{k}^{G} を超えるのは最適ではない。それどころか、効率的ですらない。というのも、黄金律 \bar{k}^{G} を上回るということは、無駄に高水準の資本を維持していることになるので、資本を取り崩して現在の消費に充てても将来の消費を犠牲にすることはない。資本を取り崩せば丸々得する。というわけで、黄金律 \bar{k}^{G} を上回る状態は動学的非効率性とか過剰蓄積と呼ばれ、避けるべき状態だと考えられている。黄金律は、それ自体が望ましいとは言えないが、動学的非効率性のボーダーラインとして役に立つのである。

財政政策と金融政策

ここまでの話、ソロヴィアには財政政策が存在しないことになっていた。ソロヴィア政府が財政収支を恒久的に赤字にすると定常状態に影響するに違いない。財政赤字の影響のメカニズムをしっかり説明すると非常にとややこしいので、ここでは結論だけお伝えしよう。

財政赤字を恒久的に拡大すると定常状態の \bar{k} は低下し、逆に赤字を縮小すると \bar{k} は上昇する。財政赤字を調整して \bar{k}^{*} を目指すのが最適である。最適な定常消費 \bar{c} は黄金律より低くなってしまうが、これは人々が将来より現在を大事に思う結果だから仕方がない。将来をもっと大事に思う人は高い定常消費を望んで財政赤字の削減を要求するだろう。逆に現在をもっと大事に思う人は定常消費を低下させてでも今の消費を増やすことを望んで更なる財政赤字の拡大を要求するだろう。両者の綱引きの結果、財政赤字が決まる。

さらに金融政策を考えるとどうなるか。金融政策を定式化する方法は様々だか、ここでは、金融政策は目標インフレ率を目指して金融調節を行うものとしよう。そしてゼロ金利制約に陥らず、ハイパーインフレにもならず、うまい具合に目標インフレ率を達成して、それが定常インフレ率になったとしよう。定常インフレ率の上げ下げは定常状態にどのような影響を与えるか?

インフレというものは、インフレ課税という言葉があるように、現金保有に対する課税のようなものだ。したがって、定常インフレ率の引き上げは増税のようなもので、財政赤字縮小と同じ効果を持ち、 \bar{k} を上昇させる。逆に定常インフレ率のを引き下げると \bar{k} は下落する。こうした効果を発案者たちの名にちなんでマンデル・トービン効果という。

現在を大事に思う人はデフレを求め、将来を大事に思う人はインフレを求めるのが正解である。もっとも、あまりインフレになりすぎると、 \bar{k} が黄金律を超えて過剰蓄積になってしまい、かえって定常消費が落ち込む動学的非効率性に陥る。どんなに将来を大事に思っても、ほどほどのインフレを求めるのが最適である。もっとも、このような長期の財政・金融政策に関しては、定常インフレ率を動かさず、財政赤字のほうで調整するのが普通である。

参考文献

  • Phelps, E.S., (1961) “The Golden Rule of Accumulation: A Fable for Growthmen,” AER.
  • Phelps, E.S., (1965) “Second Essay on the Golden Rule of Accumulation,” AER.
  • Solow, R.M., (1956) “A Contribution to the Theory of Economic Growth,” QJE.
  • Solow, R.M., (2000) Growth Theory: An Exposition, 2nd edtion. 福岡正夫訳(2000)『成長理論 第2版』。
  • 岩井克人「経済成長論」、岩井克人・伊藤元重編『現代の経済理論』1994年、所収。