【映画】ペイ・フォワード

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2000年米国映画。

世界の変え方を考える作品。
『シックスセンス』で有名な
天才子役ハーレイ・ジョエル・オスメントが主人公を演じる。

主人公のトレバー君は賢い中学一年生。
世界を変える方法を考えなさいという宿題に対して
ペイフォワードという仕組みを考案する。

ペイフォワードとは、
自分が受けた思いやりを、
その相手に返すのではなく、別の三人に与える。
与えられた人も更に別の三人に与える。
・・・という連鎖を繰り返していけば
世界に思いやりの輪が広がってゆく。
このような思いやりのネズミ講がペイフォワードだ。

トレバー君も映画製作者も気付いていないが、
これは進化論で間接互恵と呼ばれるものだ。
「情けは人の為ならず、回りまわって己がため」
という諺が示すメカニズムだ。

しかも、これは、現実の人間社会で既に実施されている。
クレジットカードによる商品の購入がそれだ。
商品の購入は、商品の流れだけをみると、
販売者から商品を貰っていることにほかならない。
これは即ち、思いやりを受け取ることだ。
そして思いやりを商品の販売者に直接返すのではなく、
自分の仕事をして、第三者に商品を提供する。
お金の流れをみれば、
仕事をして所得を得てカードの借金を返すのだが、
商品の流れをみれば、
第三者に思いやりを渡していることにほかならない。

経済活動には、
思いやりというラベルリングはなされていないが、
実態は思いやりの連鎖なのだ。
ペイフォワードと同じものだ。

ポイントは、自分は思いやりを受け取るだけ受け取って、
誰にも思いやりを与えないという「裏切り者」がいた場合、
これを排除する仕組みが必要であるということだ。

クレジットカードは、裏切り者を排除する仕組みの一つだ。
トレバー君のペイフォワードも、
クレジットカードのような裏切り者を排除する仕組みを
伴わない限り、うまくいかないことは目に見えている。
この映画が悲劇的なエンディングを迎えるのもやむを得ない。

裏切り者を排除する仕組みの必要性について
映画製作者が気付いていたら、
天才少年の社会イノベーション物語として成立していただろう。

たとえば今の日本で第二地方銀行に分類される銀行は、
もとは中世に庶民の間で自然発生した無尽講という相互扶助組織だ。
トレバー君の構想は、新手の相互扶助組織として
無尽講のように発展する可能性を秘めていたのだ。

しかし、それには裏切り者排除の仕組みが不可欠だ。
この映画がそこまで描くことができず、
悲劇的結末にせざるを得なかったことは残念だ。
が、仕方がない。

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【映画】エンド・オブ・ザ・ワールド

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『プライドと偏見』のキーラ・ナイトレイがヒロインを演じる、
ロマンティック・コメディのロードムービーだ。

邦題をみるかぎりでは
ありがちなSFスペクタクルを連想するが、
本作はSF要素は皆無である。
原題を直訳すると
「世界の終わりに友だち探し」
であり、邦題では省略された友だち探しを
テーマにした作品である。
世界の終わりは状況設定に過ぎない。

だが、バブル研としては、
この状況設定に興味がある。
無限繰り返しゲームが文明を成り立たせてる
という観点から本作品を観た。

文明は
「終局において破たんすべき性質のもの」(無限連鎖講禁止法)
である。つまりネズミ講でありバブルだ。
文明が破綻した後に残るのは親子関係か親友関係しかない。
この映画はその二つの関係を考える話だ。

映画の冒頭でニュースが流れる。
地球に衝突しそうな隕石を破壊する作戦を
試みたが、失敗に終わった。
三週間後に人類は滅びます、と
アナウンサーが告げた途端、
妻はドアを開けて逃げ出す。
夫は冴えない中年男。これが主人公だ。

妻は夫を愛していなかったが、
世界が続く可能性があるうちは、
おそらく経済的な理由を考慮して
夫の元に留まっていたのだ。

主人公は勤務先の保険会社に向かう。
めぼしい人物は全員仕事をやめ、
家族の元に去った後だった。
残ったのは、主人公を含め、
孤独そうで冴えない者ばかり。
希望者は重役に抜擢されるとのことだが、
主人公は仕事をやめる。

思うに、会社組織はバブルであり無期限性に立脚している。
期限が見えると会社は崩壊するのだ。
作品中最後まで自分の仕事を続けるのは
主人公の雇っている家政婦と
旅先の田舎の保安官と、それと
ニュースを流すTV局スタッフだけだ。
自分の仕事に誇り持っているのか
それとも単なる惰性か。
その他は誰も仕事をしなくなる。

そのうち略奪と破壊を行う群衆が迫る。
警察組織は崩壊しており、取り締まる者はいない。
いくらでも略奪し放題だ。
しかし略奪する群衆が登場するのは一回だけ。
おそらく、ためしに略奪してみたが、
世界が終るのに無駄に略奪しても意味がない
ことを悟ったに違いない。
中には、世界の終わりを信じないで、
あちこちから略奪してきたであろう
食料や武器を貯め込む者も登場するが、
大部分の人は、残り日数の衣食住を確保すれば
それ以上の財は要らないと考えているようだ。
要るのは共に過ごす人だ。

終局が近づくと、作風はファンタジー度が増す。
のんびり海岸で何してるの?とか、
小型飛行機で大西洋を横断できるの?
という問いは野暮というものだ。

この映画を一緒に観た「親友」は、
エンディングに不満だったらしい。
これはファンタジー映画なので、
あのエンディングでいいと思う。
ただ主人公の父親が可哀想な気がした。

似た設定の作品に
伊坂幸太郎『終末のフール』という小説があるそうだ。
やはり、秩序が崩壊する中でどう生きるか
という話らしい。読んでみようと思う。
また、似た設定に
『終末の過ごし方』という18禁ゲームがあるそうだ。
これはやれないなぁ。

商人のジレンマ

1940年にロンドンで生まれたケン少年は、
商店主が代金を受け取って商品を引き渡すことを
不思議に思っていた。
商店主が代金をそのままポケットにしまうだけで
商品を引き渡さない、
ということをしないのは何故なのか?

ケン少年はやがて数学者になりゲーム理論を研究する。
この少年時代の疑問をケン・ビンモアが回想して
著書に記したの七十才近くになってからだ(Binmore 2007)。
このケン少年の疑問こそ、
経済学者が長年気付きそうで気付かなかった大問題なのだ。

一回限りの交換は成立しない

あなたが誰かと物を交換する。
自分の持ち物も大事だが、
それより相手の持ち物を手に入れたほうが得をする。
相手も同じで、
自分の物よりあなたの物が欲しい。
持ち物を交換すればお互いに得をする。
ウィン&ウィンだ。

相手に会うのはこれ一回きりとしよう。
一回限りということは
お互いに匿名で覆面しているようなものだ。
この状況で、持ち物を交換できるか?

経済学では対立する二通りの考え方がある。
簡単に交換できるという伝統的な考え方と、
絶対に交換できないという新しい考え方だ。

良識的に考えれば問題なく交換できそうだ。
交換して互いに得するなら、
交換を約束して互いに自分の物を相手に渡せばいい。
人には生まれつき交換性向があるとアダム・スミスは述べた。
それ以来の伝統のためか、
普通の経済学は簡単に交換できることを前提にして話を進める。

しかしよく考えてみよう。相手は善人なのか?
匿名覆面の相手は信用ならない。
相手はあなたを裏切るかもしれない。
あなたの渡した物を受け取っておきながら、
自分の物を渡さずに手元に残せば、相手は得をする。
相手が本当に利己的で合理的ならば、必ずあなたを裏切る。
裏切られるぐらいなら、こちらも渡さないほうが得だ。
相手も同じように考えるだろう。

あなた自身が人を裏切るような小悪党ではないとしても、
相手が信じてくれなければしかたがない。
裏切れば得をするのだから相手の裏切りを疑うのが合理的だ。
互いに裏切りを疑えば、互いに持ち物を渡さない。
交換できない、という結果に陥る。
互いに協力すれば良い結果になることは分かっていても、
互いに裏切られるのを疑って、協力できない均衡に陥る。
これは非協力ゲーム理論でいう囚人のジレンマそのものだ。

囚人のジレンマという言葉の感じからすると、
取り調べ室のような状況を想像してしまい、
通常の経済活動とは無縁のもののように思えるかも知れない。
本当は、交換という基本的な経済活動に当てはまるジレンマだ。

単なる交換が囚人のジレンマの状況にあるということが
指摘されるようになったのは、かなり最近のことのようで、
私の探した限りでは青木(2000)が最初だ。
だから、この事実に気付いている経済学者はまだ少ない。

渡すタイミングをずらしても取引不成立

一回限りの交換は成立しないという見方に疑問を抱く人は、
二人が同時に渡そうとするから駄目なのであって、
一方が先に渡して他方が後で渡すという約束を結べば、
うまく取引が成立するのではないか、
と考えるかもしれない。
しかしタイミングをずらしても取引は成立しない。

取引が成立しないわけは次の通りだ。
先手の立場になって考えてみよう。
先に渡しても後手が渡し返してくれる保証はない。
後手が利己的ならば貰うだけ貰って自分は渡さずに済ますだろう。
先手は渡すだけ損だから、渡さないのが得策だ。
先手が渡さないので後手も渡さない。

では、何かの手違い先手が渡したら後手はどうするか。
後手は貰いっぱなしで自分は相手に渡さぬほうが得だ。
後手が合理的ならは渡さない。やはり取引は成立しない。

これはゲーム理論で信頼ゲームと呼ばれる(Binmore 2004)。
一方的囚人のジレンマとも呼ばれる(Greif 2005)。
進化ゲームでは直接互恵と呼ばれるようだ(Nowak 2006)。
どの呼び名にせよ、一回限りであれば取引は不成立で終わる。

囚人のジレンマと信頼ゲーム(一方的囚人のジレンマ)を
ひっくるめて商人のジレンマと呼びたいと思う。
私独自の用語法なので商標登録したい(かも)。

ここでの結論は、
商人のジレンマにおいて一回限りの取引は成立しない、
絶対に。ということだ。

評判の役割

路地裏で覆面をした人物が物を売っていたらあなたは買うか?
買わないだろう。
怪しげな覆面の人物は裏切っても失うものはない。
裏切るに違いない。
だからあなたは買わない。

同じようにインターネット上で
完全な匿名の人が物を売っていたらあなたは買うか?
やはり買わないだろう。
少なくとも、相手が完全匿名ではなく、
たとえばオークションサイトに登録していて、
それなりに善良な取引履歴が記録されていて
初めて購入を検討するのではないか。

鍵となるのは評判(レピュテーション)だ。

取引の合意を裏切ったら悪い評判が立ち、
悪い評判が立てば今後の取引機会を失い、
取引を失えば不利益を受けるとなれば、
相手は不利益を恐れて裏切らないに違いない。
互いにそのことを知っていれば取引を履行するだろう。
これで取引成立だ。

ここで取引を正直に履行するのは、
道徳観念に導かれた善き行いなどでは全然なく、
あくまで利に釣られた合理的行動である点に注意しよう。

評判を持つには少なくとも名前が付いていないといけない。
評判は名前に憑くからだ。
オークションサイトの参加者には
ハンドル名にしろ何にしろ名前が付いている。
ハンドル名と実名との関連は運営会社が管理している。
決して匿名ではない。

そもそも名前というのは、
その場にいない人の評判を噂するためのものだ。
人類が発明した社会ツールなのだ。

同時に引き渡す交換の場合、
双方が名前を持っていないといけない。
どちらかが匿名では、匿名者が裏切る。
そのように相手が疑うので交換は不成立に終わる。

では、先ほどみた
信頼ゲーム(一方的囚人のジレンマ)
の場合はどうか。

信頼ゲームでは引き渡すタイミングをずらす。
後から渡す後手には名前が必須だが、
先に渡す先手は匿名で構わない。
そのわけは、後手がきちんと引き渡すという評判さえあれば、
先手に評判がなくても、
先手が後手の評判を知っていて、
先に物を引き渡しさえすれば、
両者の間で取引は成立するからだ。

信頼ゲームでいう信頼とは、
後手が信頼できるかどうかが問われるという意味だ。
後手は評判を保つことで利益を受ける。
そのことを先手が知っていれば、
先手は後手を信頼する。
後手は裏切ったら評判を失う。

現実を考えても、匿名は先手だ。
匿名の買い手は先に代金を払ってから店を出ることを許される。
匿名なのに「後で払いますから」と言って
店を出ていくことはあり得ない。

先手が匿名であってもいいが、
後手は匿名であっては取引は成立しない。
匿名の後手は貰いっぱなしで逃げてしまえば得するだろう
と先手が疑うので取引にならないからだ。
現実の小売り取引でも、たとえ買い手が匿名であっても、
売り手は何らかの評判を持っていのが普通だ。

無期限でなければ取引は成立しない

取引当事者の少なくとも一方が評判を持てば、
取引が成立する可能性が開かれる。

しかし、もし取引機会に決まった最終回があるとすると、
それ以前の全期間で取引が成立しなくなる。
このことを示すには少々長くなるが、つきあって読んで欲しい。

まず、次のように考えよう。
ある取引において評判を要する側が
今後誰とも取引する機会を持たない場合、
その取引は成立しない。そのわけは、
評判は今後の取引機会を失わないためにあるからだ。
取引機会がこの取引が最後だとすると、
今後ということはないのだから、
この取引で裏切って評判を失っても
取引機会を失うことはない。
裏切らない動機がなくなる。
むしろ裏切ることで利益を得る。
少なくとも相手は裏切られると予想する。
したがって取引機会の最終回では取引は成立しない。

さらに、
最終回の直前でもやはり取引は成立しない、
ということを示そう。
最終回では取引は成立しないことは先に見た。
その直前ではどうか。
次の取引機会である最終回では取引が成立しない
と取引当事者は予想する。
すると今約束を守って評判を保っても
最終回に取引が可能になるわけではない。
評判を失っても失うものはない。
裏切らない動機はない。
むしろ裏切ることで今利益を得る。
少なくとも相手は裏切られると予想する。
したがって最後回の直前でも取引は成立しない。

直前の直前も同じ理由で取引は成立しない。
このお話を一つづ手前に適用していくと
全期間で取引が成立しない。
こういうロジックを
後ろ向き帰納法(バックワード・インダクション)
という。
ゲーム理論で使われるロジックだ。

決まった最終回があると、後ろ向き帰納法の呪いにより、
最終回のの手前の全期間で取引が成立しなくなる。
したがって、
取引が成立するには決まった最終回があってはならない。

決まった最終回のないゲームを、
無期限繰り返しゲームという。
取引は無期限繰り返しゲームでないと成立しないのだ。

このように無期限繰り返しゲームの中で生まれる均衡を
ビンモアは創発現象と呼んでいる(Binmore 2004,2007)。
取引は創発現象なのだ。

ビンモアのいう創発現象は、
こうした個々の取引だけではない。
よくよく考えると、
マネーや企業や国家や法といった文明社会的な存在は
何でもかんでも創発現象である。
つまり無限繰り返しゲームの中でないと生まれない。
この点は話が拡散するから別の機会に譲ろう。

長くなったが、結論は、
あらゆる取引は、
無期限繰り返しゲームの中でしか
成立しない
ということだ。

まとめ

というわけで
我々が日常何気なしに買い物できるのも
無期限繰り返しゲームの中で
評判を気にする売り手が存在しているからだ。

少し長くなったが、ビンモアの少年時代の疑問はこうして解ける。

参考文献

  • Binmore,K.(2004) “Reciprocity and the social contract,” politics,philosophy & economics.
  • Binmore,K.(2007) Game Theory: A Very Short Introduction. 金澤悠介・海野道郎訳『ゲーム理論 (〈1冊でわかる〉シリーズ)』2010年
  • Greif,A.(2005) Institutions and the Path to the Modern History. 岡崎哲二・神取道宏監訳『比較歴史制度分析』2009年
  • Nowak,M.(2006)”Five rules for the evolution of cooperation,” Science.
  • 青木昌彦 (2000)「財取引、契約、市場の私的秩序ガバナンス」『比較制度分析に向けて』第3章

因果関係を結論するのは慎重に

経済変数の間に因果関係はまずあり得ない、といっても過言でない。
因果関係は内生変数の間に存在しないからだ。

経済モデルの変数は内生変数と外生変数に分けられる。
外生変数は内生変数から独立しており、内生変数の影響を受けない。
内生変数は外生変数の影響を受けるし、内生変数相互に影響し合う。
経済にとって外生変数は自然環境と人々の嗜好ぐらいなもので、
そのほかは殆ど全て内生変数だ。
たとえば、大震災の発生は外生変数であり、為替相場は内生変数だ。
財政支出額とか政策金利といった政策変数は外生変数として扱われることもあるが、
よくよく考えると政策担当者や圧力団体や有権者の嗜好といったものが本当の外生変数であって、
政策変数はその影響を受ける内生変数だったりする。
経済指標の類はだいたい内生変数である。

因果関係は外生変数と内生変数の間にある
外生変数が原因で内生変数が結果だ。
「大震災が発生したので円高が進行した」という言明は、
真偽はともかく因果関係としてあり得る。
ところが「インフレ期待が高まったので円安が進行した」という言明は、
真偽以前に因果関係としておかしい。
インフレ期待も円相場も内生変数だから、相互に影響を及ぼし合うのであって、
一方から他方への因果関係を想定すること自体がナンセンスなのである。

繰り返せば内生変数の間に因果関係は存在しない。

経済変数は殆ど内生変数だから、経済変数間に因果関係はまずない、と言っても過言ではない。

とはいえ、因果関係は人の脳に理解しやすいスキーマである、ということも事実である。
したがって、説明のアート、レトリックとして、因果スキーマを使う人もいるだろう。
もっとも、内生変数間を因果関係で説明するのは本当は嘘なのだから、
誠実なレトリックとは言えない。
嘘を覚悟して使うなら構わない。嘘も方便だ。
しかし、一番大事な結論で嘘はマズいだろう。
経済変数間に因果関係を想定するのは、だいたい嘘なのだ。

そもそも因果関係なるものは、人間が勝手に想像しているものに過ぎない。
想像とはいえ役に立つ想像だから意味があるのである。
経済問題で因果関係を結論するのはだいたい嘘であり、
嘘を見破られると説得力がない。
したがって役に立たない。センスがない。

経済問題で因果関係を匂わす結論は慎重にしよう。
これが戒めである。

因果関係であっても外生変数に原因を帰するのは結構だ。
しかしそうした因果関係はそれほど多くない。
「天候不良のため新鮮野菜の価格が上がった」は
真偽はともかく因果関係として許される。
「消費者の時間選好率が高まったから一時的にGDPが増えた」も
許される。
しかし、「消費が増えたらGDPが増える」は
因果関係として明らかにマズい。
このほか因果関係として明らかにマズい例は
「円安になったから景気がよい」
「インフレになれば日本経済は復活する」
「購買力平価が為替相場を決定する」
等々。
いずれも因果関係がありそうな気分になる。
しかし因果関係はただの気のせいだ。

マネーは日本語

マネーは日本語である。というか片仮名で書いたら何でも日本語だろう。片仮名は日本語の表記文字なのだから。

マネーは日本語としては外来語である。どうみても大和言葉には見えないしね。

マネーという外来語は、おそらく英語moneyに由来すると思う。ただし、英語のmoneyはマニという感じに発音するので、マネーは英語の発音に由来するものではない。

推測するに、英米人がmoneyをマニと発音しているのを日本人が聞いて、moneyの前半のmoをマと書き、後半のneyはよく聞き取れないので文字面を眺めてローマ字風に読んでネイと書いた。合わせてマネイだ。さらに日本語の発音ではマネイと書いてマネーと読むのが流儀だから、日本語としての発音に引きずられてマネーと表記するようになった。ケイオウ大学をケーオー大学と書くようなものだ。

英単語を半分ローマ字読みして、しかも日本語発音に引きずられて表記が変わった、というわけだ。これほど訛った言葉はもはや英語ではない、正規の日本語である、と言い張ったほうが恥ずかしくない。

ちなみにフランス語のmonnaieはマネとモネの中間のような発音をするそうだ。だからといって「マネーはフランス語由来です!」て強弁するのも不自然だしね。マネーのネーという長母音はどこから来たのかよって問題になる。

英語のmoneyもフランス語のmonnaieも元はラテン語のmonetaに由来する。ラテン語はローマ字読みするのが正しいそうなので、ラテン語monetaはモネタというふうに読むらしい。

ラテン語でマネーをmonetaというのは、もともとローマのコインにJUNO MONETAと書いてあったことに由来するそうだ。

Junoはローマ神話の女神ユーノーであり、主神ユピテルの正妻である。ギリシア神話でいえばゼウスの正妻ヘラに相当する。そして、monetaはラテン語で忠告という意味である。ユーノーはよく忠告していたせいか、monetaという仇名がついていた。ということで、Juno Moneta というのはユーノーの名前と仇名をセットにしたものだ。

古代ローマではJuno Monetaの神殿がコインを発行するようになったので、そこが発行するコインにJUNO MONETAと刻むようになった。そこから転じてmonetaがマネー全般を指す語として定着したそうな。

ラテン語から英語へ、直接あるいはフランス語経由で伝播したようだ。ラテン語monetaが英語に伝播してmoneyになり、更に日本語に伝播してマネーになったというわけ。

マネーは今や立派な日本語だから、moneyの訳語としてマネーを使う事に何の問題もない。それどころか、使う事をお勧めする。

経済学者はmoneyを貨幣と訳すのが定番だが、貨幣という言葉はあまり使い慣れた言葉ではないし、貨幣という言葉からマルクス経済学の香りがほのかにする。というわけで貨幣という訳語を嫌う人もいるようだ。

でも「お金」とか訳すのも妙だ。money marketをお金市場と訳すのだろうか? ここはひとつ、moneyをマネーと訳すのが良い感じだ。

形容詞monetaryも「マネー」とか「マネーの」とか「マネー的な」と訳すのがいい感じだ。ただmonetary policyに関しては、マネー政策と訳してもいいが、金融政策と訳すのが定番なので、これだけは金融政策と訳したらいいと思う。

マネーはバブルか論争

2012年10月、経済学ブログ界で、マネーがバブルか否かについて論争が巻き起こった。

論争の流れは、ノア・スミスが自らの視点でブログ記事でフォローアップしている。論争に参戦したブログ記事のリンクは下記の一覧を参照してほしい。

だいたいこういう流れだ。

  • まず20日に、ウィリアムソンがクルーグマンを批判する文脈で「マネーはバブルだよね」と語ったのが始まりだった。
  • 21日、ノア・スミスというエコノミストが「バブルじゃないよ。マネーがバブルと言い出したら殆どの金融資産は全てバブルになってしまう。」と批判した。このノア・スミスが誰だか知らないが、日本に住んでいたこともある自称オタクらしい。
  • 22日、クルーグマンも参戦して「バブルという呼称はよろしくない。サミュエルソン流にいえばマネーは社会的工夫だ」と、言葉の定義で話を逸らした。この日にはウィリアムソンが直ちに反論したほか様々な人々が各自のブログで意見を述べて、かなり盛り上がった。
  • その後も意見は続き25日にウィリアムソンが意見を述べて論争は終結した。

ウィリアムソンの定義によると、キャッシュフローの割引現在価値をファンダメンタル価値(FV)と呼び、資産価格がFVからズレる分がバブルである。マネーはFVがゼロだから純粋なバブルである、というのがウィリアムソンの見解だ。バブル研として思うに、この手の一面的なバブル観が論争の火種となったようだ。

ノア・スミスは、金融資産のキャッシュフローはマネーで測られるから、ウィリアムソンの定義に従えば、金融資産のFVはマネーで測られ、マネーのFVがゼロなら金融資産のFVもゼロということになる。ウィリアムソンの定義はおかしい、というのがノア・スミスの批判だ。

クルーグマンは、おそらくウィリアムソンの定義を認めたうえで、バブルという呼称は、非合理的バブル(根拠なき熱狂)を想起させるのでよろしくない。バブルでなく、サミュエルソンが世代重複の論文で言ったように社会的工夫と呼ぶべきだ、と言った。

他の論者で目につくのは、チロルによるバブルの定義に言及するものだ。チロルは、サミュエルソンが世代重複モデルで社会的工夫と呼んだものをバブルと呼ぶ。この定義ではマネーはバブルだ。ウィリアムソン流のバブルの定義とは違う。ウィリアムソンの定義は、キャッシュフローや割引因子を所与とする一面的な定義である。すこし突っ込まれるとボロがでる。チロルの定義は、経済全体の動きを考慮したうえでバブルを定義しており、定義として頑健である。
ノア・スミスは、コメント欄でチロルの議論を指摘されると、「チロルは間違っていると思う」と述べているが、チロルのどこを間違っていると考えているのか説明がないので、意味不明である。

バブル研としての考えを述べてば次の通りだ。
当バブル経済研究所でいうところのバブルは、チロルと同じ意味だ。キャッシュフローの割引現在価値を云々するウィリアムソン流バブルは、定義が不十分でありミスリードを招くので宜しくない。クルーグマンはバブルじゃなくて社会的工夫と呼ぼうよと言ったが、社会的工夫と呼ぶほどマネーをコントロールできているわけではない。マネーに振り回されている現代において、社会的工夫と呼ぶのはミスリードだ。バブルという言葉がどうしても嫌だったら、クルーグマンお得意の創発現象とでも呼べばいい。

マネーはバブルか論争/ブログ記事一覧

ニューマネタリスト

ニューマネタリストという学派が存在します。ふつうは学派なんてものは外から貼るレッテルだったりするので本当に実在するのか怪しいものですが、ニューマネタリストの場合は学派を自称しているから本当に実在するといっていいでしょう。

ニューマネタリストは、ミネアポリス連銀を中心とした米国地区連銀やその周辺の大学を拠点に地道に活動しているようです。地区連銀は箔をつけるためにシニョレッジのおこぼれをバラ撒いて学者をスタッフとして雇ったりしているのですが、ニューマネタリストというのもその一種のようです。

主唱者の一人であるウィリアムソンは、ニューマネタリストと題する自身のブログで「マネーはバブルなり!」と述べて物議をかもしたりする人なので、我がバブル経済研究所としては見逃せません。なお、我がバブル経済研究所はバブリオニストという学派でありまして、ニューマネタリストとは違います。

ニューマネタリストを学派として立ち上げる際にウィリアムソンたちは「ニューマネタリスト経済学」と題する論文を二本発表しました。そのうち一本目の論文について、要約とイントロ部分だけを翻訳したのが本記事です。これを読めばニューマネタリストとは何なのか分かると思います。

原文のスタッフレポート版のPDFはこちら↓
http://www.minneapolisfed.org/research/sr/sr442.pdf
最終的にセントルイス連銀のレビューに掲載されました。

では始まり始まり~


ミネアポリス連邦銀行
調査局スタッフレポート442
2010年4月

ニューマネタリスト経済学:方法

ステファン・ウィリアムソン

セントルイス・ワシントン大学
リッチモンド連邦銀行とセントルイス連邦銀行

ランダル・ライト

ウィスコンシン大学マディソン校
ミネアポリス連邦銀行とフィラデルフィア連邦銀行

〔要旨とイントロのみ訳出〕

要旨

本論はニューマネタリズムの原理と実践を明示する。ニューマネタリズムとは、マネーや銀行業務や支払や資産市場に関する最近の研究の主要部分について我々が貼ったラベルである。最初に、我々のアプローチと他を区別する方法論的な問題を検討する。ニューマネタリズムはオールドマネタリズムと共通するものがあるが、重要な違いもある。ケインジアニズムとは共通するところが殆どない。各学派の原理を解説して、我々のアプローチと比較する。ニューマネタリスト・モデルが実際にどのように動くか示すために、ベンチマーク・モデルをつくって、インフレのコストや流動性や資産取引などの諸問題を検討する。銀行業務の新しいモデルも開発する。

1.イントロ

本論の目的は、ニューマネタリスト経済学という学派の原理と実践を明示することである。姉妹編である Williamson and Wright (2010) は、この文脈で使われるモデルを更にサーベイし、専ら技術的な論点に専ら着目しており、方法論や思想史を扱っていない。
同論文では我々のアプローチが実際に動く様子を示すために若干の技術的な資料を発表するが、本論では、より詳しくニューマネタリズムの定義について議論したい。
今やこの分野に大量の研究があるが、おそらく、これにラベルをつけることは説明に値する。
オールド・マネタリスト経済学は、ミルトン・フリードマンとその後継者の著作に集約されるが、我々はオールドマネタリストと重要な方向性で一致しないので、ニューマネタリストを自称する。
我々は新旧ケインジアンとは殆ど共通点がない。その理由は、マネー経済学へのアプローチの点、マクロ経済学のミクロ的基礎の点、名目硬直性が歪みの鍵であると信じて関心を集中する点、が挙げられる。
以下では、より詳しく、学派の原理について述べて、アプローチを区別したい。

そうする理由の一つは次の通り。オールドケインジアニズムの古き良き時代でさえ、オールドマネタリストが反対の見解を示したのは健全であったと思う。
少なくとも当時の人々への警告と解釈できる。
当時の人々は、マクロとマネーの経済学を解決済みの問題と考えていたが、それは後になって思うと早まった考えであったのは明らかだ。
人々が問題が解決されると思ったという主張は文書で十分に裏付けらる。 Leijonhufvud (1968) の引用によると、ソロウは次のような気持ちを語った。

大部分の経済学者は、短期マクロ経済理論が殆ど手に入っていると感じていると思う。…優勢な理論の基本的な枠組みは、何年も変わらなかった。残るは空箱を満たす些末な仕事でしかない。それは最大限努力して五十年もかからないだろう。

少なくとも最近の出来事〔金融危機〕の前は、ニューケインジアン・コンセンサスがあったというのが多数意見だったようだ。そして、1960年代と同じように楽天的だった。
現在ニューケインジアニズムに代わるものがあると多くの人々が認めるならば、より健全だろう。
我々は、代わりにニューマネタリズムを称する。

「『ニューケインジアニズムはマクロ経済現象を分析するのに最も役に立つアプローチであって中央銀行の政策を導く』と考えるのは少なくとも政策を指向する経済学者の間でコンセンサスである」と人々は感じている。その証拠は多くの場所で見つかる(例えば Goodfriend 2007 参照)。
これが少々驚くべきことだ。ニューケインジアン・フレームワークに根本的な欠陥があるという見方に共感する者も多い。
それから、我々はニューケインジアニズムが巷で唯一のゲームでないと思い、また、アプローチの仕方を議論する意義があると思う。このように思う者が、十分に力強く明快に意見を述べていないことも事実である。
一つに、本論は、今の状況の改善と、より好ましい議論の促進を試みる。
我々が想い描くニューマネタリストとニューケインジアンの関係は、1960年代と1970年代における議論と類似する点があるが、それ以来経済学で方法と言語の多くが変わったから当時とは違う点もある。
対話を21世紀に持ってくるには、ニューマネタリストが何をしているか、そして何故そうするのかについて述べる必要がある。

ニューマネタリストは、ここ数十年間で開発された、マネーの理論と政策、銀行業務、金融仲介、支払い、資産市場の研究の全体を含む。
マネー経済学は、世代重複モデルを使った Lucas (1972)や Kareken and Wallace (1980)所載論文のような影響力のある業績を含む。これには、もちろん Samuelson (1958)という先例が存在する。
最近では、多くのマネー理論がサーチとマッチングのアプローチを採用している。初期の例は Kiyotaki and Wright (1989)の例があるが、これにも先例として、Jones (1976) や Diamond (1984)がある。
銀行業務と金融仲介と支払いの経済学は、主に1970年代で起こった情報理論の進歩を基にしている。Diamond and Dybvig (1983)、Diamond (1984)、 Williamson (1986 and 1987a)、 Bernanke and Gertler (1989)、 Freeman (1996)のような論文がある。
資産市場とファイナンスに関しては、Duffie, Gârleanu, and Pederson (2005) や Lagos and Rocheteau (2009)といった仕事がある。
この研究の多くは抽象的で理論的だが、最近は経験的で政策的な論点に関心が向いている。

この仕事を統一するものを説明するために、第1節で、我々が他の学派の特徴を何とみなすかについて説明し、ニューマネタリストは何が違うのかを述べる。
それから、我々のアプローチを導く原理を宣言する。
ニューマネタリストはおよそ次のことに同意すると思う。

原理1。ミクロ的基礎が重要だ。そして、政策議論を含むマクロとマネーの経済学の建設的な分析は、内部的に一貫した健全な経済理論にこだわる必要がある。

原理2。マネーが重要だ。そして、マネー現象と金融政策を理解するための探求において、マネーの役割を生み出す摩擦を最初に明示するモデルを使うのが決定的によい。Wallace (1998) 曰く「マネー経済学においてマネーが原始的であってはいけない。

原理3。金融仲介が重要だ。例えば、銀行負債と通貨は交換媒介物としての似し役割を果たすことがある。銀行負債と通貨を別々に扱うと、多くの論点で道を誤りかねない。

原理4。マネーや金融仲介機関の役割を引き起こす摩擦をモデル化する際に、抽象性と扱いやすさの適切なレベルを見極めなければならない。例えば世代重複モデルにおいて人々が2期間生きるといった設定や、サーチモデルにおいて人々が全くランダムに出会うといった設定は、非現実的かもしれないが無駄なものではない。

原理5。一つのモデルがマネー経済学の全問題を扱う汎用車両であってはならないが、様々な問題に適用される、似たような仮定と技術装置を使用するフレームワークやモデルの類があることは望ましい。

これらの原理が全て広く受け入れられるわけではないことは明らかだ。
原理2(マネーが重要だ)を考えよう。金融政策分析に使われる近頃流行のモデルでは、マネーも銀行も金融機関もないので、原理2は守られない。マネーを考慮する場合は、事前現金制約を仮定したり、効用関数や生産関数にマネーを入れて誤魔化す。国債や銀行準備金を生産関数や効用関数に入れることすらある。
たとえ、これらの原理の一部が大部分の経済学者に受け入れられても、それは程度の問題だ。
原理4(適切な抽象化)を考えよう。役に立つ経済モデルが必ずしも現実的であるわけではないと誰もが教わる。しかし、世代重複やマネーサーチのモデルが、主に現実性の欠如の点で厳しく批判されることがある。また、原理1(ミクロ的基礎が重要だ)を決まり文句にして欲しくない。ニューマネタリストが真剣に思うように、少なくとも口先では誰もが健全で一貫した経済理論を望む。
今は唯一の例というわけではないが、いわゆる物価水準の財政理論を考えよう。
物価水準の財政理論は、均衡で起こること以外は何も意味を持たないモデルなのに、均衡から外れることに依存している。こういう事実にもかかわらず、ニューケインジアンは物価水準の財政理論を面白がる。これは、とてもニューマネタリストをあきれさせるものだ。

ニューマネタリストが経済理論の健全性と一貫性に関して懸念する明白な例は、ケインジアンの全体系が粘着価格に依存していることだ。粘着価格がカルボの価格設定(Calvo 1983)やマンキューのメニューコスト(Mankiw 1985)に基づく場合でも、我々は粘着価格をミクロ的基礎とは思わない。
名目粘着性のメリットやデメリットに関する議論にやり過ぎということはないが、留保も言い訳もしないで粘着性を採用する経済学者が少なくない。みんなの考えを簡単に変えることはできないということだ。
しかし、Williamson and Wright (2010) で我々は、この論点に関する二つのニューマネタリスト・モデルを思考材料として提供する。

一つは、Woodford (2003) や Clarida, Gali, and Gertler (1999) に見られるような価格粘着性を敢えて我々のフレームワークに適用する。たとえ名目粘着性が不可欠だとしても、マネーや銀行業務や金融機関に関して真剣でないわけでないことを示すという目的がある。もう一つのモデルは、名目粘着性を単に仮定するではなく、名目粘着性が結果として生じるようにサーチ理論を使用する。
多くの価格が粘着的に見えるという幅広い観察だけでなく、Klenow and Malin (forthcoming) とその引用で述べられる詳細なミクロ的な証拠とも、このモデルは一致している。
それでも、ニューケインジアンとかなり異なる政策の処方が得られる。つまりマネーは中立である。
我々は後で問題の一部に戻る。しかし、ここでのポイントは、粘着価格だからといって、論理的に必ずしも非中立性の結果が得られたり、ケインジアン政策を支持する結果が得られたりするわけではない、ということだ。

本稿の構成は、以下の通りである。
第2節では、ニューマネタリストに関する詳細と、他のアプローチとの違いについて展開する。
第3節では、前述の原理5の精神において、Lagos and Wright(2005)に基づく非常に扱いやすいニューマネタリスト・ベンチマーク・モデルを展開する。
仮定の裏側にあるものや、マネーは中立であるが超中立でないかもしれないという特性や、フリードマン・ルールは最適であるが最善でないかもしれないという特性を説明する。
第4節で、基本的なモデルについて、先行研究にみられるような拡張をいくつか検討する。
それから、これらのモデルで、資産市場や銀行業務や金融政策に関する問題にどのように対処できるのか述べる。
第5節では、我々はマネーと株式のモデルを構築して、資産価格設定、資産取引と流動性プレミアへの意味合いを、金融政策からの影響を含めて検討する。
第6節は、このモデルが銀行業務を含むように拡張する。これにより、金融仲介が厚生を改善する様子を示し、また、金利に対する金融政策の影響に関して新しい結果を引き出す。
ニューマネタリズムがオールドマネタリズムと異なる点を一つ例示する。100パーセントの預金準備を求めるフリードマンの提案は、このモデルでは金融仲介からの厚生増加を排除するので、間違った考えだ。これは前述の原理3を例証する。
第7節で結びである。

そして、本稿や Williamson and Wright (2010) で示される例がニューマネタリスト・アプローチの有用性を示すると思う。
読者に評価してもらうため、すべての例で使われるモデルは一貫した経済原理に基づいている。
これが、交換過程における通貨の役割を定式化するのに用いられる最も単純なセットアップであり、銀行業務や信用仲介や支払システムや資産市場を取り入れた拡張であることは事実だ。
これが理論の点で面白いだけでなく、現在の経済状況を理解して、将来の政策を形成するために学ばれる教訓でもある。
最近の危機には、根本的に、銀行業務やモーゲージその他の信用取引や資産市場の情報問題に関連した問題がある。そうである限り、交換過程を真面目に捉える理論なしに問題に立ち向かうことはできない。
交換過程を研究すること、それこそがニューマネタリストだからだ。
ニューケインジアンは少々目覚ましい成功をおさめたが、おそらく、特に政策担当者を説得する際に、すべての経済問題が名目硬直性に起因するとは思っていない。
そして、 Krugman (2009) のような復古派の見方のように、すべての興味深い質問に対する答えがオールド・ケインジアンの交叉〔45度線図やIS-LM分析〕にかかっているとも思わない。
このアプローチが研究者や政策担当者に代替案を与えると思う。引き続き我々の立場を詳しく述べたいと思う。

〔第二章以下省略〕

〔以下の参考文献はイントロで言及しているものだけコピペ〕

  • Calvo, Guillermo. “Staggered Prices in a Utility-Maximizing Framework.” Journal of Monetary Economics, September 1983, 12(3), pp. 383-98.
  • Clarida, Richard; Gali, Jordi and Gertler, Mark. “The Science of Monetary Policy: A New Keynesian Perspective.” Journal of Economic Literature, December 1999, 37(4), pp. 1661-707.
  • Diamond, Douglas. “Financial Intermediation and Delegated Monitoring.” Review of Economic Studies, July 1984, 51(166), pp. 393-414
  • Diamond, Douglas and Dybvig, Philip. “Bank Runs, Deposit Insurance, and Liquidity.” Journal of Political Economy, June 1983, 91(3), pp. 401-19.
  • Diamond, Peter. “Money in Search Equilibrium.” Econometrica, January 1984, 52(1), pp. 1-20.
  • Duffie, Darrell; Gârleanu, Nicolae and Pederson, Lasse H. “Over-the-Counter Markets.” Econometrica, November 2005, 73(6), pp. 1815-47
  • Freeman, Scott J. “The Payments System, Liquidity, and Rediscounting.” American Economic Review, December 1996, 86(5), pp. 1126-38.
  • Goodfriend, Marvin. “How the World Achieved Consensus on Monetary Policy.” Journal of Economic Perspectives, Fall 2007, 21(4), pp. 47-68.
  • Jones, Robert A. “The Origin and Development of Media of Exchange.” Journal of Political Economy, August
    1976, 84(4), pp. 757-75.
  • Kareken, John H. and Wallace, Neil. Models of Monetary Economies. Minneapolis: Federal Reserve Bank of Minneapolis, 1980.
  • Kiyotaki, Nobuhiro and Wright, Randall. “On Money as a Medium of Exchange.” Journal of Political Economy, August 1989, 97(4), pp. 927-54.
  • Klenow, Peter and Malin, Benjamin A. “Microeconomic Evidence on Price-Setting,” in Handbook of Monetary Economics. Volume 3A. (forthcoming).
  • Krugman, Paul. “How Did Economists Get It So Wrong?” New York Times Magazine, September 2, 2009
  • Lagos, Ricardo and Rocheteau, Guillaume. “Liquidity in Asset Markets with Search Frictions.” Econometrica, March 2009, 77(2), pp. 403-26.
  • Lagos, Ricardo and Wright, Randall. “A Unified Framework for Monetary Theory and Policy Analysis.” Journal of Political Economy, June 2005, 113(3), pp. 463-84.
    Leijonhufvud, Axel. On Keynesian Economics and the Economics of Keynes: A Study in Monetary Theory. London: Oxford University Press, 1968.
  • Lucas, Robert E. “Expectations and the Neutrality of Money.” Journal of Economic Theory, April 1972, 4(2), pp. 103-24.Mankiw, N. Gregory. “Small Menu Costs and Large Business Cycles: A Macroeconomic Model.” Quarterly Journal of Economics, May 1985, 100(2), pp. 529-38.
  • Samuelson, Paul A. “An Exact Consumption-Loan Model With or Without the Social Contrivance of Money.” Journal of Political Economy, 1958, 66(6), pp. 467-82.
  • Wallace, Neil. “A Dictum for Monetary Theory.” Federal Reserve Bank of Minneapolis Quarterly Review, Winter 1998, 22(1), pp. 20-26.
  • Williamson, Stephen. “Costly Monitoring, Financial Intermediation, and Equilibrium Credit Rationing.” Journal of Monetary Economics, September 1986, 18(2), pp. 159-79.
  • Williamson, Stephen. “Financial Intermediation, Business Failures, and Real Business Cycles.” Journal of Political Economy, December 1987a, 95(6), pp. 1196-216.
  • Williamson, Stephen and Wright, Randall. “New Monetarist Economics: Models,” 2010 in Benjamin Friedman and Michael Woodford, eds., Handbook of Monetary Economics. Volume 3A.
  • Woodford, Michael. Interest and Prices: Foundations of a Theory of Monetary Policy. Princeton, NJ: Princeton University Press, 2003.

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北村行伸「ジョン・ロー」

北村行伸「ジョン・ロー」、日本経済新聞 、やさしい経済学、危機・先人に学ぶ、2012年3月5日~14日

http://www.ier.hit-u.ac.jp/~kitamura/PDF/A239.pdf

バブルといえばジョンロー。日経やさしい経済学に連載されたジョンローの短い評伝です。

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