福沢諭吉「商人に告るの文」

引用します。


   商人に告るの文    

   (本文は当社新報商事編輯主任員が商人某々氏に与へて貨殖の秘訣を論じたるものなり) 

(前略)商業は何のために営むものに御座候哉。其目的は利を博し富を得るより外には有之間敷候。人間の幸福は富ならでは買ふべからず、人生七十古来稀、幸福を享くべき時限も極めて短きものに候へば、富を得るの工夫も十分に精神を込め、大急ぎに急がざれば間に合ひ兼る事と存候。

 商業の繁昌は利を得るの基なり。然るに此繁昌を来たすの術は、正直と熟練とを以て十分衆客の望みに応じ、且つ其価を廉に致すに在ること勿論なりといへども、此正直と熟練と且つ其価の廉なるとを世間に示すの工夫なければ、商業繁昌思ひも寄らざる事に候。今爰に甲乙二人あり。同様の場所にて同様の商業を営み、正直熟練廉価等の諸点は甲乙の間に差別なきに、其実際を見れば甲の店は一年一万円の売上げなるに、乙の店は二万円の売上げを為すことあらん。何故に斯る相違を生ずるやと其原因を糺すに、甲は新店にて得意の客甚だ少なく、乙の店は暖簾甚だ古くして客足甚だ繁きがためなることを発明するば毎度の例なり。左すれば乙の繁昌は其腕前の甲に勝る所あるがためにはあらで、甲乙の二人が人に知らるゝことの多少よりして、店の売上げに斯る相違を生じたることゝ知るべし。商人は人に知らるゝこと甚だ大切なりと申すべし。

 人に知らるゝこと甚だ難し。尋常商人が人に知らるゝの手段は、先づ人通り多き場所に店を設け、店頭に招牌を掲げ、店を装飾して人の目に付く様に品物を並らべ、特別の商標を用ひて注意を喚ぶ等の事なり。或は十字街頭人行最も繁き所に広告の張紙を為し、或は種々の引札を調製して戸別に配布するなど、何れも皆大切なる手段なりといへども、今の時代に在りては其及ぶ所の甚だ広く其費用の甚だ廉なるものは、新聞紙を借りて広告するに匹敵すべきものなし。新聞紙は上天子の宮殿より下陋巷の茅屋に至るまで、東西南北都鄙遠近の別なく行き渡らずといふことなし。若し人ありて、新聞の手を借らず、他の引札張札等の方法を以て新聞同様の広さに広告を行届かしめんと試むることあらんには、其費用と手数の莫大なる。尋常人の資力には及ぶべがらざるものならん。或は物好き半分にこれを実行せんとするも到底力の及び得ざる所あるを発明するなるべし。当時商人の風習にて開店売出し抔の弘めには、数百或は数千枚の引札を摺立てゝこれを遠近の人家に投入れしむるを例とせり。是固より無きに優る披露の一法なりといへども、其手数費用と家々隈なく行渡ることゝを比較すれば、新聞紙の広告に及ばざること甚だ遥かなり。殊に人情の常として新聞紙は自分の銭を持出して買ひだるものゆゑ、社説なり雑報なり又広告なり、読まざるは損と心得て多忙の中にも一読するものなれども、無代にて投入れられたる引札なれば、又何品か売付けに来りたりと先づ心に逆ふる所あるより、仮令一読の閑はありても大抵取上げて見ぬを例とするなり。左すれば配布の枚数は同一にても、其広告の利き目に至りては新聞と引札とは天淵の相違あるものと知るべし。

 商人等の説に、広告をするには適当の時節ありとて、共時期を鑑定すること甚だ肝要なりと信ずる者あり。是亦一応其理なきにあらず。厳冬に函館氷安売の広告を為し、暑中に襟巻売出しの広告を為すとも、為めに店の繁昌を増すことは六ヶ敷かるべし。故に何時にても新聞紙に広告さへ出せば商売繁昌疑ひなしといふべからずといへども、少し商売上の機転ある以上は、年中絶聞なく広告するをよしとするなり。今の繁劇なる世の中にては、今日新聞紙上に見たる広告は、翌日か翌々日頃には全く打忘るゝを常とするなれば、一度新聞紙に広告したるものは二度の披露を要せずとすること大なる考へ違ひなり。西洋商人の諺に「一年三百六十日、広告に最上の日は三百六十日なり」といふことあり。甚だ味ある言といふべし。

 広告文を認むるは甚だ六ヶ敷事の様に心得、広告引札の文は必ず有名なる筆者に依頼せざれば叶はぬ事と信ずる者多し。大なる間違なり。世の中に手紙の書けぬ商人あるべからず。手紙を書きて其意の通ずるものが、広告文を書きて意の通ぜぬ道理なし。広告文は達意を主とす。余計なる長口上は甚だ無用なり。他人に案文を依頼せぬ自筆の広告文の中には、時に由り文法にも適はぬ悪文もあるべしといへども、其意味の分らぬ様の事は決してなきものなり。意味さへ分れば、共文法の可笑しき抔は、自から其中に其人の率直淡泊敢為の気象を示して、却て衆客の愛顧を引寄するものゆゑ、決して恐るゝに足らざるなり。唯広告文を認むるには一通り我思ふ儘を書き下したる後、今一度熟読して無用の字句を削り去るべし。六行のものは必ず五行にて済むものなり。一行にても少なければ夫れ丈の新聞紙広告代を省き得べし。

 西洋にては商売の秘訣は広告に在りと申して、商人が広告に金を費すこと実に莫大なり。其有様は迚も古風の日本商人等が想像し得る所にあらず。米国にては一年十万弗以上を広告代に費す者数名あり。千弗以上二万弗以下を費す者は、或る広告取次店の知る所のみにても数百名ありといへり。其盛んなること推して知るべきなり。今日本にては商人にして広告の利を知る者甚だ少なし。若し我店の隣人等も我と同様に広告せんには、我広告の功能も左様著しかるまじきが、幸にして隣人等は引札配布、団扇進呈位にて満足する折柄なれば、大に我腕を揮ひて独り富を占んこと、此時を失ひて又他に好機ながるべし。篤と御勘考、急ぎ金儲けの御工夫専一に奉存候。云々。                                       〔十月十六日〕


(出典)『福沢諭吉全集』第九巻、時事新報論集、第二(明治十六年六月~十二月)、1960年、p216-219

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商人のジレンマ/シグムンドの説明

以前の記事「商人のジレンマ」でこう書いた。
「囚人のジレンマという言葉の感じからすると、
 取り調べ室のような状況を想像してしまい、
 通常の経済活動とは無縁のもののように思えるかも知れない。
 本当は、交換という基本的な経済活動に当てはまるジレンマだ。

 単なる交換が囚人のジレンマの状況にあるということが
 指摘されるようになったのは、かなり最近のことのようで、
 私の探した限りでは青木(2000)が最初だ。」

経済学関係では青木(2000)1が今のところ最初だと思うが、
視野を進化ゲーム論にまで広げるともう少し早い例がある。
進化ゲーム理論家のシグムンドが1993年に書いている。

「ジレンマは囚人の話にかぎらない。たとえば、それはあらゆる商談についてまわるものなのである。両者は取引によって、お互いに利益を得ることができるが、ときには、一方的に、相手に荷を負わせることによって、もっと多くの利益を得る場合もあり得る。」2

シグムンドは、「あらゆる商談」が囚人のジレンマの状況にあることを指摘している。

続いてシグムンドは、取引を成り立たせる権威について語る。

「ふつうは、ある種の権威が裏切りの誘惑を抑えるようになっている。教育、法律、警察などの社会的圧力が、このような利己的な側面を抑えているのである。しかし、中央の権威が失われると、問題は深刻になるであろう。」2

シグムンドのいうことに付け加えることがあるとすれば、
現実には、たとえ中央の権威が盤石であっても、
実際の商取引で中央の権威は殆ど役に立っていない。
中央の権威は民事不介入だ。

また、権威もまたゲームの均衡として存立しているのだから、
権威が外的に強制力を行使するという想定は一貫性に欠けている。

権威による外的強制が効かない場合についてシグムンドは続ける。

「どのようにして、強制と良識のない競争者の間から協調関係を引き出せるであろうか? それはおそらく、繰り返しによって可能になるであろう。明らかに相手を裏切ろうとする対戦者達は、裏切りのために仲間を失っていくだろう。将来、さらに取引を続けていこうと思うなら、公平な取引をするのが大事なのである。 」2

とシグムンドは書いて、
そして、進化ゲーム理論の観点にもとづき、
繰り返しゲームから協調関係の成立する条件について
詳しく説明するのである。

無期限繰り返しゲームでなければ取引は成立し得ないことを明確に説いている。


  1. 青木昌彦 (2000)「財取引、契約、市場の私的秩序ガバナンス」『比較制度分析に向けて』第3章 
  2. シグムンド『数学でみた生命と進化』講談社ブルーバックス、1996年(原著1993年)、p384)。 

生産性の国際比較

生産性の国際比較については、
以前は米国労働統計局が計算していた
国際労働比較 International Labor Comparisons (ILC)
が便利だったのですが、2011年のデータを最後に更新を止めたようです。

今ではコンファレンスボードが引き継いでいます。

The Conference Board Total Economy Database™.

米国労働統計局時代になかった「成長会計」「全要素生産性の成長」的な項目があるのですが、
センスがないなーと思って無視するようにしましょう。
たとえ教科書に載っていてもダメなものはダメです。
こういうものはコブダグラス型生産関数という特殊なケースでないと通用しないんです。

ビンモア『自然的正義』

表題の書籍は現在翻訳中ということだが、いつになったら出版されるのだろうか?
この本が日本で普及することを願っている。

以下、引用。

ケン・ビンモア Ken Binmore
『自然的正義』 鈴村興太郎 他訳
原書:Natural Justice(Oxford Univ. Press, 2005)
本書においてビンモアは,道徳に対するカント流のア・プリオリな理解に対抗して,道徳原理を,人間の進化の歴史によって自然主義的に理解しようとする.その際,彼は合理的で利己的な諸個人を前提としたゲーム理論的枠組みを採用しており,諸個人が公正な社会契約を締結した社会が発展するという議論を展開している.論争の余地が多いが,道徳原理をゲーム理論的に理解しようとする意欲的な著作である.
(現在,翻訳中)

引用元: NTT出版 叢書≪制度を考える≫ | 仮想制度研究所 VCASI.

安田洋祐「今日で世界が終わるなら、何が『できる』か」

安田洋祐「今日で世界が終わるなら、何が『できる』か」、『インセンティブの作法』、東洋経済オンライン.

ツイッターで著者ご本人から教えていただきました。

概略としては

  • 世界の終わる日に仕事する人はいない。
  • 世界の終わる日にはお金は価値を失う。
  • 世界の終わる日がいつか分かると
    (後ろ向き帰納法により)
    終わりの日以前でもお金は価値を失う。

というお話です。

このお話は、細かいところで幾つか異論はあるのですが、
概略としてはとても参考になります。

前半の仕事の話については、以前書いた
【映画】エンド・オブ・ザ・ワールド
が関連します。

後半のお金の価値の話については、
岩井克人『貨幣論』を参考にしているのではないかと推定されます。
同書は日本で一番有名な「マネーはバブルだ」論です。
同書についてはまだ本ブログで言及していなかったので
後日扱いたいと思います。

徒然草の大福長者

兼好法師の書いた徒然草に、
ある大福長者から聞いた話が載っている。
大福長者というのは今でいえば大富豪のこと。
徒然草は鎌倉時代の終わり頃にまとめられたようだから、
この大福長者は鎌倉時代後期を生きた大富豪である。
この大福長者は金儲けの方法について次のように語ったという。

「人は何よりも一途に利益を得なさい。
 貧しくては生きる甲斐がない。
 富める者のみが人といえる。
 利益を得ようと思うなら、
 まず心の使い方を修業しなさい。
 その心というのは他でもない。

  1. 人の世が永続するものと思って、
    仮にも無常と思ってはならない。
    これが第一の用心である。
  2. 何でも用を叶えてはならない。
    人は皆、願望が無限である。
    欲に従って望みを遂げようと思えば、
    百万の銭があっても少しも続かない。
    願望は止むことがない。
    財は尽きる限度がある。
    限りある財をもって、限りない願を叶えることはできない。
    願望が心に生じかけたら、
    自分を滅ぼす悪念が来たものと堅く慎み恐れて、
    少しの用も為してはならない。
  3. 銭を召使いのように用いる物と考えれば、
    ずっと貧苦を免れることはない。
    主君のように神のように畏れ尊め。
    銭を従えて用いようとしてはならない。
  4. 恥辱を受けたとしても、怒ったり怨んだりしてはならない。
  5. 正直にして約束を堅く守りなさい。

 この義を守って利を求めようとする人に富が来る。
 それは、乾いた物に火が付き、
 低い所に水が流れるのと同じである。
 銭が積もって尽きない時は、
 宴会・飲酒・歌唱・色事をやらず、住宅を飾らず、
 願望を叶えなくても、心は永遠に安楽である。」

大福長者の五箇条の教えは、かなり含蓄が深い。逐条解説しよう。

第1条 人の世が永遠に続くと思え

原文は
「人間常住の思ひに住して、仮にも無常を観ずる事なかれ」。

「人間」は今では一人一人の個人の意味しかないが、
もともとは人間世界の意味である。
鎌倉時代の当時にあってはどちらの意味でも使っていた。
個人は必ず死ぬから常住とはいえないので、
ここは人間世界の意味に捉える。

「常住」と「無常」は対になった仏教用語である。
鎌倉時代に成立した平家物語の冒頭に
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とあるように、
当時は諸行無常が流行思想であった。

諸行無常はもともと大乗仏典の般若経にある言葉である。
般若経によると、
「俗世の行いは無常だが仏陀は常住である」という。
「常住」とは永遠に生きるという意味であり、
「仏性常住」とは
「成仏すれば永遠の命が手に入るぞ」
という宣伝文句である。

永遠の命を望む煩悩に囚われていては、
とても悟りをひらけそうにもないが、
ともかく般若経はそのように説く。
鎌倉時代人の多くはそれを信じた。

こうした当時の風潮に対して、
大福長者は一人で異議を申し立てる。
「人間常住」すなわち「人間世界こそ永遠である」と。
しかも人間常住を念ずると金儲けできるという。

理由は書いてない。
次の第2条や第3条に関しては理由が書いてあるが、
第1条については
記録者の兼好法師が興味を持てなかったためか、
理由が残されていない。

ただ、第5条に約束を守れとあることと組み合わせて考えると、
理由が見えてくる。
「人間常住」とは、
「無限繰り返しゲームをプレイするつもりでおれ」
という意味であろう。

無限繰り返しゲームは
現代のゲーム理論で研究されるゲームの一種である。
商取引は常に囚人のジレンマの状況にある。
ということは以前の記事「商人のジレンマ」に書いた。

有限回の囚人のジレンマでは取引は成立しない。
しかし、無限繰り返しゲームでは、
囚人のジレンマから脱して、相互に得する状態に昇華できる。
ウィン・アンド・ウィンで商取引は成立する。

こうした無限繰り返しゲームのアイデアは、
1950年代にゲーム理論家の間で自然発生し、
1959年にオーマンというイスラエル人のゲーム理論家が
初めて発表した。

鎌倉時代の大福長者が、
本当に現代のゲーム理論と同じ考えをしていたかどうかは
兼好法師が書き残してくれなかったから分からない。
ただ、第5条に約束を守れとあることを見ると、
大福長者はゲーム理論と同じ発想をしていたと
解釈する以外に理解できない。

第2条 欲望を叶えるな

原文「万事の用を叶ふべからず」云々。

これは倹約の勧めである。
第1条と違って理由もちゃんと書いてある。
願望は無限で、金銭は有限だから、
いちいち願望を叶えていてはキリがない、
ということだ。

兼好法師はこの教えを批判して、
「人は願望を叶えるために銭を求めるものだから、
銭があっても使わないのでは貧乏と同じだ」
などと言っている。
兼好法師は荘園領主層の末端にいる不労所得者であるから
能天気な批判を加えて恥じない。

この条文は後世に最も影響を残した。
「金儲けするにはまず倹約しろ」
というのだから何といっても分かりやすい。
大福長者の教えの流れをくむ一連の書籍は必ず倹約を説く。
例えば、江戸時代初めに刊行された仮名草子「長者教」、
「大福新長者教」の副題を持つ井原西鶴「日本永代蔵」、
江戸中期から流行した石田梅岩の「都鄙問答」「斉家論」、
その他の商人道徳書の類い、
明治時代の福沢諭吉「民間経済録」など、
倹約を説かないものはない。

第3条 金銭を神のように尊べ

原文「銭を…君の如く神の如く畏れ尊みて従ひ用ゐる事なかれ」云々。

一見すると、拝金主義者か守銭奴を思わせる教えだが、
現代人は大福長者を笑えない。
現代人は、金銭を神に擬した「会社」という架空の存在を
創り出している。

鎌倉時代において寺社が経営体の一種であったように、
現代において会社は神々の一種である。
多くの人が会社を雇い主と仰いで仕えている。

大福長者が「銭を従えて用いてはならない」というのは
現代風にいえば「会社の金を私用で使い込むな」
という意味であって、
現代人は普通にやっていることだ。
鎌倉時代の当時は会社という制度がないので、
大福長者は自分の心の中に経営体をつくった。

当時にもイエという永続経営体があったが、
イエを組織したのは公家や武家などの上流社会に限られており、
商人はまだイエを組織していなかった。
その後、江戸時代になるとイエ制度が庶民に降りてきて、
商人もイエを組織するようになる。
こうして出来上がった商家において、
家産は先祖からの預かり物であり、
先祖の遺訓に従って運用するものであって、
イエの当主であっても私用に費やすことはできない。
家産をもって、先祖の神霊の所有物とみなしているわけだ。
明治時代になって会社制度が導入され、
経営体としては会社がイエを圧倒するようになって現代に至る。

会社は前に述べたようにお金の神霊に他ならない。
現代では大福長者の教えが社会に浸透している。
会社というお金の神霊に仕えることは、
現代人が普通にやっていることだ。

第4条 怒るな怨むな

原文「恥に臨むといふとも怒り怨むる事なかれ」。

理由は書いていない。
どうしてこれが金儲けに繋がるのか。
直ちに理解できないかもしれない。
おそらく次のような理由である。

不当な扱いを受けたら怒り怨み復讐する。
復讐を恐れる相手が不当な扱いを控えるようになり、
復讐する側が最終的に得をするケースがある。

しかし、復讐はコストを伴うから、戦略的な意図が無い限り、
復讐を怠けるようになる。
いちいち戦略的な思考をしなくても復讐を怠けないように、
怒りや怨みといった復讐感情が進化した。
そういう説が進化心理学で有力である。

復讐感情は人の心に埋め込まれた、
復讐を自動実行するプログラムである。
怒り怨みの感情を抱くという事は、
復讐の自動実行プログラムが作動中という事だ。

ところが、復讐しても最終的に得をしない場面であっても、
怒り怨みの感情が暴走してしまうと
余計な復讐をしてしまうことがある。
これは復讐プログラムの誤作動というべきものだが、
この誤作動が相当に根深く人の心に食い込んでいることは、
最後通告ゲームというゲームの実験でも確かめられている。

さて大福長者の状況を考えよう。
商売において、裏切られたからといって
わざわざコストをかけて復讐しなければならないかというと、
おそらくそういうケースは少ない。

商売で裏切った者、つまり債務不履行者は、
世間の評判を失い、取引停止処分を受けることで制裁を受ける。
裏切られた者がわざわざコストを負担してまで
復讐を遂げる必要はない。
この場合、復讐はコストがかかるだけ損である。
商売の場面で怒り怨みの感情は
復讐自動実行プログラムの誤作動でしかない。

さらに、復讐をちらつかせて相手の自制を求める場合、
復讐という脅しが信憑性を持つためには
相応の武力を見せつけなければならない。
武力は略奪の手段に転用し得る。
略奪の手段を見せつける者を
商取引の相手に選ぶのは危険である。
武力を見せつけると取引相手が見つからない。

山本七平は武士道と商人道を対比した。
復讐心は武士道に含まれる。
同じようにジェイコブズは、
統治の倫理と市場の倫理を対比した。
復讐心は統治の倫理に属する。

怒り怨みの復讐心を滅却せよという大福長者のアドバイスは、
「商売人たるものは、武士道や統治の倫理を捨てて、
商人道と市場の倫理に専念せよ。専念しなければ儲からんぞ」
というアドバイスであるといえる。

第5条 正直にして約束を守れ

原文は「正直にして約束を堅くせよ」。
このように兼好法師はさらりと書くだけで、
大福長者がこの教えを垂れた理由を書いてない。

一見すると正直にするとか約束を守るのは
当然の倫理のように聞こえる。
しかし、ここで大福長者は倫理を説いているのではなく、
金儲けの方法を説いているのだ。

大福長者曰く、正直者は得をする。何故なのか。

これとは真逆に、正直者は損をする、という諺があるが、
これは貧乏人の僻みに過ぎない。
「自分は正直者だが貧乏だ。豊かな奴は不正直に違いない」
などというように僻むから貧乏なのだ。
不正直者が商売できると思っているのか?

正直者であるとの評判を得なければ商売などできない。
このことの詳細は以前の記事「商人のジレンマ」に書いた。

また、無期限繰り返しゲームでなければ
正直にしていても商売は成立しない。
ここで大福長者の教えの第1条
「人の世が永遠に続くものと思え」
が生きてくる。
諸行無常などとうそぶいている者は商売人として信用ならん
ということだ。
商売人として信頼されるには、
無期限繰り返しゲームのなかで
評判を勝ち取る戦略を採っていることを
皆に知ってもらわないといけない。

このように、大福長者の教えは、
最初の第1条と最後の第5条が結びついて話が閉じる。
まことによくできた教えである。

しかし、正直者は得をする、という大福長者の教えは、
いまだになかなか浸透していないように思える。
正直者は得をするという思想の系譜については
別途書きたいと思う。

経済学101

経済学101 — 経済学的思考を一般に広めることを目的とした非営利団体です.

経済学に関する面白そうなサイトみつけました。

今のところ海外ブログ記事の翻訳を主にやっとるみたいです。
せっかく翻訳するなら、論文のアブストとかイントロの翻訳をやってもらえたらなぁ、
などとワガママを書いてみる。

そして、こちら様はなんと!天下にかくれなき一般社団法人だそうです。
登記してるっすか!税金おさめてるっすか!
代表はゴルフ場の若社長さんらしいのです。
権利能力ある社団を設立して運営資金を募金しているみたい。
税金がかからないNPO法人のほうがいいんじゃないかしら。などと老婆心。

ちなみに我がバブル経済研究所は任意団体。権能なき社団っす。もち非課税っす。

ジョン・ローとメフィストフェレス

ゲーテの『ファウスト』にメフィストフェレスという悪魔が登場する。
ミシシッピ・バブルを演出したジョン・ローはメフィストフェレスのモデルであるとする説がある。
森鴎外が、『ファイスト』を翻訳した際に著した『フアウスト考』で、その説を紹介している。

森鴎外『フアウスト考』大正2年、p274、近代デジタルライブラリー所蔵
「地下の宝はメフィストフェレスが取り出そうと約束したばかりで、取り出さない。仮装舞の場で持ち出した箱は幻術の戯に過ぎない。これに反して同じ場で帝は意識せずに、紙幣の版下の署名させられた。紙幣の基本金は、即ち未発掘の地下の宝である。これは歴史に類例がある。一つは一七二〇年にフランスでミシシッピイの土地を基本にしてだしたロオの紙幣、今一つは一七八九年に同じ国で、寺院財産を基本にして出したアシニアア紙幣で、いづれも国家の破産を誘致してゐる。」

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